衝撃①
あっという間に年が明け、元旦のその日、コータ先輩はいつもより早く迎えにきた。
毎年元旦の夜は、あの路地裏のクラブで『顔見せ会』というものをするらしい。
コータ先輩は「みんなで集まって新年の挨拶をするだけだ」と笑って言っていたけど、スーツを着ているのを見る限り、結構きちんとした集まりらしかった。
「樹里も一緒に行こう」と誘われたけど、あの路地裏のクラブも、あそこにいる人たちも苦手な私は、「行かなきゃダメ?」とした質問に、「嫌なら行かなくていい」と言ってもらえたから行かないことにした。
繁華街まで一緒に行く道中、コータ先輩はずっと私の事を気にしていて、
「三が日は結構ここら辺の奴らじゃないのもウロウロしてんだよ。今日は『顔見せ会』で、ここらの奴らみんな出払ってるから、お前につけとける奴がいねぇ」
「大丈夫だよ」
「本当か? 変なのに絡まれたらどうすんだ?」
「大丈夫だって」
マンションから別れ際まで同じことばかり言われた挙句、「何かあったらすぐに電話すんだぞ」と何度も念を押された。
コータ先輩を見送った後、近くの神社に向かう人の波に押されながら、目的もなく夕方の繁華街を歩いた。
通りはいつもより人が多く、ほんの少ししか前が見えない状態で、思ってもみない方向に押し流されたり、肘や足をぶつけられたりして、すぐにげんなりとした。
聞こえてくるざわめきに眩暈を起こしそうになり、感じる息苦しさからとにかく脇に逸れてこの混雑から逃れようと、流れの途切れを探していた私は、それを見つけた。
三メートルくらい前を行く金髪のツンツン頭。
私が見間違えるはずがない、絶対に間違えたりなんかしない、直人の姿。
その後ろ姿に釘付けになった私の全身に電流のようなものが走り、心臓がドクンと大きな音を立てる。
どうしても忘れられない人。私の大切な人。
最後に会った時より随分痩せたように思える直人の姿に、愛おしいという想いが胸の中を駆け巡る。
私は繁華街の人混みの中で立ち止まり、久しぶりに見た直人の姿から目が離せなくなり――…
「なお!」
突然、ざわめきに混じった女の人の声に背筋が凍った。
声のした方に目を向けると、派手な女の人が人混みを掻き分け直人に向かって走っていく。
その人が傍まで来ると直人はその人の肩に腕を回す。
女の人は直人の肩に頭をくっつけ嬉しそうに笑い、はっきりと顔は見えないけど直人も楽しそうだった。
――直人に彼女が出来た。
目の前に突き付けられた現実に、カタカタと体が震え始める。
頭が真っ白になっていくのが分かり、次の瞬間私は駆け出していた。
表通りから裏通りに入り、夢中で走る私は、どこかに向かっていた訳じゃく、ただその場からすぐに消え去りたかった。
走っても走っても、女の人の肩を抱いてる直人の姿が頭から離れない。
生々しい映像が追い掛けてくる。
感じる息苦しさよりも、追い詰められるような感情の方がつらくて、何かから逃げるようにずっと走り続けていた私は、夜の闇が世界を飲み込んだ頃、ようやく足を止めた。
どこにいるのか分からない。
細い路地裏。
何かのお店の裏口があり、近くにはゴミ箱が三つほど並んでいる。
私はフラフラとゴミ箱に近付くと、その場で――吐いた。
胃に吐く物がなくなって胃酸しか出て来なくなっても、その場でゲェゲェと吐き続けた。
胃酸で喉が焼けるように熱い。
激しい嘔吐に涙が出る。
それでも私はずっとそこで吐き続け、そして最後はその場に倒れ込み、気を失った。
……私を呼ぶ声が聞こえる。
「樹里?」と優しく呼ぶ声が聞こえる。
直人の優しい声が聞こえる。
私を包み込む温もりを感じる。
直人のセブンスターの香りがする。
「樹里?」
――優しい直人の声。
「樹里?」
――愛しい直人の声。
「樹里、目ぇ覚ませ」
――違う。コータ先輩の声だ。
ハッと目を覚まし、ぼやけた視界にいつもの天井が見えて、自分がコータ先輩のマンションのベッドの中にいるんだとすぐに分かった。
「大丈夫か?」
目を開けた私の顔をコータ先輩は心配そうに覗き込み、優しく声を掛けてくる。
「私……」
そう口を開いた途端、さっき見た直人の姿を思い出し、突然目から涙が溢れ、私は両手で顔を覆って泣き出した。
「何があった?」
コータ先輩の優しい問い掛けにも泣きながら首を横に振り、
「誰かに何かされたのか?」
何も答えず泣き続けることしか出来ない私の頭を、コータ先輩はずっと撫でていた。
その日から毎日吐き続けた。
何も食べずに吐き続け、「とにかく胃に何か入れろ」と、コータ先輩に無理矢理食べさせられるおかゆを、すぐに吐き出したりもした。
目を閉じると浮かんでくる、直人と女の人の姿を思い出しては何度も吐いた。
胃酸で喉が焼け、胃がキリキリと痛み、泣き続ける瞼は腫れ上がっていた。
そんな私にコータ先輩はずっとついていてくれて、夜中に突然起き上がり、嘔吐を繰り返す私の背中を寝ずに摩ってくれていた。
四日目にもなると、私の体は完全に衰弱しきっていて、
「樹里……頼むから食ってくれ」
コータ先輩は何とか何かを食べさせようと、擦ったりんごをスプーンで掬い、私の口元に持ってくる。
カサカサに乾いた私の唇をコータ先輩はスプーンでこじ開け、擦ったりんごを口の中へ押し込み――…
「――…ゲェホッ」
途端に私は嘔吐した。
コータ先輩は即座に持っていた器を枕元に置き、ベッドの脇に置いてあった洗面器を差し出す。
差し出された洗面器にゲェゲェと吐く私の嘔吐が一瞬止まると、コータ先輩は私の顔を上に向かせ、口を指で無理矢理開き、水の入ったペットボトルを押し込んで強引に水を飲ませた。
私がこの状態になってから、胃酸で喉が悪くなるからと、吐き始めるとコータ先輩はこうして水を飲ませる。
口に指を入れられる苦しさから、何度も指を噛んでしまっても絶対に水を飲ませる。
吐いては飲み、吐いては飲みを繰り返し、私はそのまま吐き疲れ、気を失うように眠りに就いた。
次に目を覚ますと部屋の中は薄暗く、私は息をするのも苦しい、朦朧とした意識の中にいた。
ふと視線を向けた先にいるコータ先輩は、床に座りベッドに顔を伏せ眠っていて、右手でしっかりと私の手を握り締め、その顔は疲れていた。
ここ数日、吐き続ける私の背中をずっと摩っていて、きっとロクに眠っていない。
私が噛んだ所為でコータ先輩の右手の指は傷だらけになり、所々切れたり内出血を起こしたりもしていた。
ベッドに横たわったまま、コータ先輩の疲れきった顔を見つめていると、申し訳ない気持ちが込み上がる。
それと同時に湧き上がってくるのは、自分に対しての叱咤の気持ち。
こんなに私を心配してくれている人がいる。寝ないで背中を摩ってくれる人がいる。
このままじゃダメだ。こんなこと、ただの現実逃避と変わらない。
このまま私が死んで誰が喜ぶの? 直人と別れた時、自分がもっとしっかりしていればと何度も思ったのに。
こんなんじゃダメ。
直人は前へ進んでいる。
与える側の人間になりたいと思いながら、結局私は与えられる側の人間に納まってる。
受け入れたくない現実も、いつかは受け入れなきゃいけない。
このまま私が腐っていっても直人は喜ばない。
――私も前に進まなくちゃいけない。
そっとコータ先輩の右手から手を抜き、体を起こして枕元の棚にあるすっかり色の変わった、擦ったりんごが入った器に手を伸ばし、
――食べれないんじゃない。食べたくないと拒否していただけ。
何度も自分にそう言い聞かせ、大きく息を吸い込んだ。
――しっかりしなきゃ。
スプーンで擦ったりんごを掬い、ゆっくりと口の中へりんごを流し込むと、直後に口の中にりんごの香りが広がり、吐き出したいと胃が悲鳴を上げる。
だけどその吐き気と共にゴクリとりんごを飲み込むと、ずっと空腹だった胃にりんごが染み渡っていくのを感じた。
襲ってくる吐き気を何度も飲み込みながら、ゆっくりとりんごを食べ続け、
「……樹里……」
半分ほどを食べた時、コータ先輩の声が聞こえた。
りんごの器から視線を移すと、コータ先輩は半分うつろな目で私を見つめ、
「良かった……」
小さくそう呟いて再び深い眠りに就く。
私はそんなコータ先輩に、「迷惑かけてごめんね」と何度も心の中で謝った。
次の日からリハビリが始まり、最初の二日間は擦ったりんごしか食べれなかったものの、三日目からはおかゆを食べれるようになり、十日後にはほぼ完治して、直人のことを思い出しても吐くことはなくなった。
「なぁ、樹里?」
すっかり普通に食事が出来るようになり、マンションで一緒にコンビニのお弁当を食べている時、コータ先輩は真剣な面持ちで私を見つめ、
「あの日、何があった? もし誰かに何かされたんなら言えよ? 俺が相手見つけてぶっ殺してやる」
怖いくらいに低い声を出した。
それはあの日以来、初めてコータ先輩が口にしたあの時の話。
だけど決して本当のことを言わないと心に決め、
「ううん。何もない。ただ気分が悪くなっただけ」
そうとだけ言って、私はお弁当に視線を戻した。
お弁当を食べ終わってから、「今日、行きたい所があるから行ってくる」と告げると、コータ先輩は「体、大丈夫なのか?」と心配そうだったけど、「平気」と答えると、もう何も言わなかった。
私には、前に進むためにどうしてもしなくちゃいけないことがあった。
どうしても確かめなくちゃいけないこと。
そのために行かなくちゃいけない場所。私はある種の覚悟を決めていた。
夜の十一時半を過ぎた頃、コータ先輩と繁華街へ向かう道中、コータ先輩は私の手を強く握っていた。
「ここでいい」
繁華街に入って少し歩いた所でそう言うと、コータ先輩は足を止め、更に繋いでいた手をギュッと強く握る。
「本当に大丈夫か?」
「うん」
「何かあったらすぐ連絡しろよ?」
「うん」
そう言ってコータ先輩の手を離し人混みに入った私は、煙草の自動販売機のある表通りの角を曲がり、行き慣れた裏通りを走った。
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