衝撃②


 いくつもの店の裏口が並ぶドアの一つを目指し、目的のドアの前まで行くとその時を待つ。



 それからしばらくして開いたドアと共に「お疲れ様でした」と声が聞こえ、ドアの向こうからヒョッコリとヨウちんが顔を出した。



「ヨウちん、聞きたいことがあるの」


 すぐに私に気付いたヨウちんは、私の言葉に「分かった」と頷く。そしていつもの場所に向かって歩き出し、



「歩きながら話したい」


 足を止めたヨウちんにそう言うと、「うん、いいよ」とまた歩き出した。



「あのね?」


 ヨウちんの背中に話し掛ける私に、



「うん」


 ヨウちんは振り向かない。



「この間、繁華街で直人を見た」


「……そう」


 直人の名前を出したからなのか、ヨウちんの声は少し小さくなり、



「直人、女の人といた」


「……うん」


「直人、彼女出来たの?」


「……らしいよ」


 とても小さな声でポツンと呟く。



 その呟きに、もしかしたら違うかもしれないと、心のどこかにあった期待が音を立てて崩れた。



 全てが現実となり、目の前に立ち塞がる。



 それは大きな壁のようでもあり、深い谷のようなものでもある。



 今にも吐き出しそうになったのをグッと堪え、



「そっか」


 絞り出した私の声は震えていた。



「アイツ、今色々あるから……」


 それだけ言ってヨウちんは黙り込み、重い沈黙が流れた。



 張り詰めた空気は、居心地の悪い雰囲気を作る。



 だけどそれを感じていたのは私だけじゃないのは確かで、



「そう言えば、この間大変だったろ?」


 ヨウちんは、まるでその空気を振り払うかのように振り返った。



 突然沈黙が破られたことと、話が変わったことに「え?」と聞き返すと、



「年明けだったかな? ここら一帯めちゃ凄かったんだぜ」


 ヨウちんは柔らかな笑みを作る。そして、「本当に何も知らない?」と、どこか真剣な口調で、静かに質問を口にした。



「うん。知らない」


「コータ先輩の号令がかかったんだよ」


「へぇ」


「樹里ちゃん探せって」


「……え?」


「樹里ちゃん、いなくなったんでしょ? 俺も良くは分からないんだけど、ここら一帯、樹里ちゃん探す奴らでいっぱいだったよ。俺の耳に入ってくるくらいね」


「……」


「コータ先輩、樹里ちゃんのこと相当大事にしてるんだって思ったよ」


 驚きから声も出なくなった私を、ヨウちんはジッと見つめ、



「……樹里ちゃん」


 静かに名前を呼ぶ。



 そして私に一歩近付き、



「もう直人のことは忘れた方がいい。幸せになりなよ。これ以上直人を想ってても、つらくなるだけだよ……」


 そう口にした。


 その言葉が直人への気持ちにトドメを刺し、私の目から涙がこぼれ落ちる。



 でもそれは、私が望んでいたこと。



 トドメを刺してもらうためにここに来た。



  直人を忘れて前に進まなくちゃいけないと思ったからこそ、気持ちの整理をつけるためにヨウちんに会いに来た。



 自分一人じゃどうしようもない想いを、誰かに――私と直人のことを知ってる誰かに――はっきり終わりだと宣告されたいと思って来た。



 だからこれでいいんだと、むしろこうでなきゃダメなんだと、自分で自分に言い聞かせ、静かに涙をぬぐった。



 それから私とヨウちんは黙って裏通りを歩き、表通りの明かりが見えた所で、「ここでいいよ」と足を止めた。



「樹里ちゃん、元気でね」


「うん。ありがとう」


 立ち止まって笑顔を向けてくれるヨウちんに、私も笑って返事をして、表通りに向かって走り出す。



 話をしながら歩いていた所為で、いつもより二本筋の違う裏通りから表通りに出ると、すぐにいつもヨウちんと別れる筋に向かい、すれ違う人と肩がぶつかっても、立ち止まることなく走り続けた。



 いつもの通りが見えてきた所で、コータ先輩に電話をしようと、足を緩めて携帯を取り出す。



 そして携帯のボタンを押そうとした――その時。人混みの中にコータ先輩の姿を見つけた。



 コータ先輩は、私がいつも戻ってくる裏通りの入り口に立ち、チラチラと時計を見ては、裏通りへと目を配らせている。



 誰かと待ち合わせでもしているのかと、少しの間その場でコータ先輩の様子を見ていた私は、その数分後に気が付いた。



――コータ先輩は誰かを待ってるんじゃない。私を待ってる。



 ヨウちんに会いに行く時、戻ってくるといつもあの場所でコータ先輩と会った。



「偶然だな」とコータ先輩は言ってたけど、それは決して偶然なんかじゃない。



 コータ先輩は全部分かってあの場所で私を待っていてくれた。



 こんなにも私のことを大切に想ってくれてる人がいる。



 なのに私はその人から目を逸らし、ずっと他の人を追いかけていた。



 ギュッと胸が締め付けられる思いに、私はコータ先輩の方へと駆け出した。



 いつもと違う場所から駆け寄る私に気付いたコータ先輩の目が驚きに見開かれ、そんなコータ先輩に私は駆け寄った勢いのまま抱きついた。



――温かい体。



 ずっと私を守ってくれていた人。



「何だ? どうした?」


 困惑するコータ先輩は、



「何だよ? 何かあったか?」


 いつまでも離れようとしない私に心配そうな声を出す。



 その声が私の心を包み込み、その優しさが全身に染み渡っていく。



 嗚呼、この人はずっとこうして私を優しく包んでくれていた。



 私はそれに気付こうとせず、ずっと後ろを振り返っていた。



 直人を思い出すばかりで、この人を見ようとしてなかった。



 こんなにもこの人は温かいのに……。



――コータ先輩を大切にしよう。



 心からそう思った私は、コータ先輩を抱き締めている手に力を入れ、



「コータ先輩……」


 小さく呟き目を閉じた。



 目を閉じても、もう直人の姿は浮かんでこなかった。





「心配した?」


 シャッターの閉じた店の前で並んで座りながらコータ先輩にそう聞くと、



「何が?」


 コータ先輩は煙草の煙をふぅっと吐き出し、私にチラリと目だけを向けた。



「……元旦の日。心配した?」


「あぁ。頭おかしくなるかと思った」


「うん」


「お前、本当俺に心配ばっか掛けるよな」


「うん」


「俺がハゲたらお前の所為だな」


 その言葉にフフッと小さく笑うと、コータ先輩は「笑ってんじゃねぇよ」と私の頭をクシャクシャに撫でる。



 そしてスッと表情を硬くして、



「何もなかったんだよな?」


「うん?」


「あの日、誰かに拉致られたとか犯されたとか、そんなんじゃねぇんだよな?」


「うん」


「絶対だな?」


「うん」


「ならいい」


 そう言って目の前の人混みに視線を移した。



 その横顔に込み上げてくるのは罪悪感。



 コータ先輩は、私の身に何かあったと心配してくれたのに、私は直人のことでボロボロになってた。



 コータ先輩の気持ちなんて全然考えてなかった。



 人の好意を踏みにじってしまった罪悪感が胸を締め付ける。



「心配かけてごめんなさい」


 横顔を見つめながらそう呟いた私は、



「もういい。気にすんな」


 そう言ってくれるコータ先輩に何度も謝った。



 それからはいつものように繁華街で遊び、朝日が昇り始めると、コータ先輩はマンションに送ってくれた。



「もう一人で大丈夫か?」


 途中のコンビニで買ってきた飲み物を冷蔵庫に詰め込むコータ先輩の言葉に、「うん?」と聞き返すと、コータ先輩は冷蔵庫を閉じ、私に近付いた。



「気分悪くなりそうなら、今日も泊まっていこうか?」


「ううん。大丈夫。もう吐いたりしない」


 私の返事に、コータ先輩は「そうか」とそう言って、ついでのように私の頭を撫でてから、クローゼットに行き服を着替え始める。



 服を脱ぎ、その筋肉質な体が露わになる。



 コータ先輩はいつか自分のことを「リーサルウエポンだから」と笑って言っていた。



 広い背中の龍の刺青。



 動くたびに軽く力こぶが出来る二の腕。



 サラッとしていて柔らかそうな短めの茶色い髪。



 その姿をぼんやりと見つめていた私は、それらを少し愛おしいと思った。



――大丈夫。きっとこの人を好きになれる。直人のことで傷ついた心を癒してくれるのはこの人しかいない。



「んじゃ、また夜迎え来る」


 そう言ってコータ先輩がマンションを出ていくと、私はスウェットに着替えてベッドに潜り込んだ。



 窓から朝日が差し込み、チュンチュンとスズメの鳴き声が聞こえる。



 私はそっと目を閉じ――…数分もしない内に何とも言えない不安感に襲われ再び目を開けた。



 部屋の中は静かで、耳に入るのは冷蔵庫のモーター音と時計の音。



 そして外から微かに聞こえるスズメの鳴き声だけ。



 その静けさに何故か寂しさを感じた。



 ここ二週間、吐き続ける私の傍にはずっとコータ先輩がいた。



 完治するまでコータ先輩が寝泊りしてくれていたおかげで、一人じゃなかった。



 つまりそれは、久しぶりに私がこの部屋で一人きりになった時だった。



「……寂しいなぁ」


 小さな呟きが虚しく部屋に響き、直後にまた静けさが生まれる。



 それから私は何時間も寝返りを打ち、眠れない時間を過ごした。



 部屋の中に人の気配がないことを何故か不安に思う。



 傍に誰もいないことがやけに不安を煽る。



 その不安感が絶頂に達した時、私は鞄の中から携帯を取り出し、0と打って発信ボタンを押した。



 携帯の画面にコータ先輩の電話番号が表示され、携帯を耳に押し当てるとトゥルルと呼び出し音が聞こえてくる。



 そして何度か呼び出し音が鳴った後、



『――…はい。誰?』


 電話の向こうからコータ先輩の寝ぼけた低い声が聞こえてきた。



「……樹里」


『……んー? 樹里? 何だ? どうした?』


「何もない」


『何だと? つか、今何時だよ……』


 その言葉と同時に、ゴソゴソと動く音が聞こえ、



『まだ朝の十時じゃねぇか』


「うん」


 そう答えると、コータ先輩は欠伸をする。



「何してた?」


『いい度胸だ、この野郎』


「何してるのかなって思って電話した」


『てめぇ、新種の嫌がらせかよ』


 その声は言葉とは裏腹に笑っていて、



「何してた?」


『勘弁しろよ、その嫌がらせ大成功だよ』


 苦笑に交じってカチッとライターの音がした直後に、ふぅっと煙を吐くコータ先輩の吐息が聞こえた。

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