消えぬ想い①


 事が終わった後、直人は私を抱き締めたままベッドに横たわった。



 直人の細く筋肉質な右腕に腕枕をされ、左手でしっかりと腰を抱かれたまま、私は――後悔していた。



――どうしてこんな事……。いくら直人が好きでも、彼直人には彼女がいるのに……。



 叶う事のない想い。



 だけど戻らない体。



 それでも心のどこかで、これで良かったのかもと思っている自分に嫌悪を感じる。



 直人は右手の指に私の髪を絡めながら、優しく頭を撫でる。時折、思い出したかのように、おでこや頬に何度もキスをされた。



「樹里……」


 おっとりとした小さな直人の囁きに、聞こえないフリをして返事をしなかった私は、何度も何度も心の中で繰り返し呟いていた。



――忘れようと思っていたのに。好きだと思う気持ちを消そうとしていたのに。忘れなきゃダメ。こんなの、自分が傷付くだけだ。



 そんな事ばかり思っていた私は、ふと隣から聞こえてくる寝息に気付き、抱き締められる腕の中で顔を上げた。



「……寝たの?」


 問い掛けに直人の返事はなく、気持ちの良さそうな寝息だけが聞こえる。



 少しだけ体を離し、普段はジッと見つめる事の出来ない直人の顔を見て、ドキリとした。



 普段はワックスでツンツンに立てている髪が、今はぱったりと垂れ下がり、目つきが悪いと思っていた目が二重だと知る。



 筋の通った鼻。少し薄いけど、大きめの唇。



――見れば見るほど直人の事を愛おしく思った。



 手を伸ばし、輪っかのピアスがいくつもついている耳たぶに触れてみると、柔らかくて――温かい。



 耳たぶから顎のラインへ。そして、唇へと指を移動させる。



 プニッとした唇独特の感触に、さっきまでの優しいキスを思い出し、私の目には涙が溢れた。



――これは何の涙? 後悔? 幸福?それとも……。



 唇に触れていた指をそっと離し、直人の髪に触れる。



 柔らかい髪を撫でながら、眠っている直人にキスをした。



 そして、その唇から離れると、再び直人の胸に顔をうずめた。



――彼女さん、ごめんね。でも今日で終わりにするから。今だけ――今だけでいいからこの胸を私に貸して下さい。



 心の中で直人の彼女への懺悔の言葉を繰り返し、溢れる涙が直人の胸を微かに湿らす。



 声を押し殺し泣いている私は、きっとそうする資格もない。



 窓の外が少しずつ暗くなっていく。



 夕陽色に染まっていた部屋の中にも自然と暗闇が落ちた。



 直人の胸に顔をうずめたまま目を閉じると、その温もりが私を包み込む。



 近くで聞こえる直人の寝息が心地の好い。



 体に乗せられた直人の腕の重みが気持ち良い。



 直人の体温が伝わってくる。



 安堵感のような感覚に包み込まれる。



 そんな感覚に薄暗さも手伝って、ウトウトとし始めた――時。



 突然部屋に携帯の着信音が響き渡り、私はハッと閉じていた目を開いた。



 鳴り響く着信音に「……ん、……」と、唸りながら直人が寝返りを打ち、直人の腕が私の体から離れていく。



――この着信音、私の携帯じゃない……。



 サッと全身から血の気が引いた気がした。背筋に走る悪寒はきっと嫌な予感の所為。「直人、」と呼び掛けその肩を掴み、



「……っ、起きて!」


 声を張り上げると直人が「ん、」と小さな声を漏らす。



「……何……? どした?」


 目を擦りながら寝惚けた声を出す直人は、まだ携帯の音に気付いていないらしい。



「携帯……鳴ってる」


 目を見ずに告げた私から、直人の温もりが完全に離れていく。



 直人は黙って起き上がり、部屋の電気を点けてからサイドテーブルにあった携帯に手を伸ばす。



 そして――。



「――…もしもし?」


 電話の向こうの相手に、優しい声を出した。



 今まで聞いた事のない優しい声に体が強張った。



 その声を聞いて電話の相手が彼女なのだと悟った。



 急に押し寄せてきた虚無感から、私は静かにベッドを出ると、音を立てないようにして服に着替えた。



 その間も直人の優しい声は、電話の主へと送られる。



「ごめん、寝てた。うん。え? うん。大丈夫。今から出るから。うん。じゃあ、後で」


 私の前で彼女と約束をして電話を切った直人の視線が、着替え終わった私に向けられ、



「樹里?」


「何?」


「俺、ちょっと出掛けなきゃいけないんだけど、ここで待ってる? 二時間くらいで戻って来るから」


「ううん。帰る」


 一度も直人の方を見ないで答えた私は、ベッドの脇に落ちていた鞄を拾い、急いで直人の部屋を出た。



 直後に、「樹里!」と直人の声が聞こえた気がしけど、振り返らず階段を駆け下り、直人の家を飛び出した。



 それから、どれくらい走ったのか分からない。



 ずっと走り続けた息苦しさから足を止めた私はその場に座り込んだ。



――電話の相手は絶対に彼女だった。直人の優しいあの声は、彼女へのものだった。



 頭を過ぎる確信に全身が震え出す。



 シクシクと下腹部に痛みがくる。



「私……何してるんだろ……」


 夜の暗闇に呟きが響き、何ともいえない惨めさが襲ってくる。



 彼女がいる事は分かっていたはずなのに――全てを承知していたはずなのに――目からは涙が溢れ出し、私はその場で泣き崩れた。





 惨めな初体験の翌日から、私はまた家から出られなくなった。



 田舎から戻った杏子から毎日電話が掛かってきたけど、「夏風邪をひいたから」と誘いを何度も断った。



 あの日以来直人からも電話やメールが毎日きた。



 でも私は、直人からの連絡を一切受けなかった。



 直人から届くメールは読まずに削除。



 着信音に胸を痛め、三日間くらい電源を切っていた時もあった。



 今更何を言われるのかと思うと怖い。一番怖いと思うのは「ごめん」と謝られる事だった。



 無かった事にしてくれ――と、言われるんじゃないかと思うと怖くて仕方ない。



 別に彼女になりたくて抱かれた訳じゃない。



 好きだからそうした。ただそれだけの事。



 でもこうなってしまった以上、直人への想いは早く消さなくてはいけない気がした。



――直人を忘れたい。



 それが彼女の為なのか自分の為なのか、それとも直人の為なのかは分からない。



 悲しさや悔しさに毎晩泣き、いくら悔いてもあの時には戻れないもどかしさにイライラもした。



 もう会わなければいい。



 そうすればきっと直人を忘れられる。



 そう思う反面、会いたさが募る。



――直人の声を聞きたいという思いが溢れる。



 結局家から出られないまま夏休みは終わり、新学期が始まっても、私は溜まり場に行かず、学校の中でも直人を避けた。



 それでも直人からの電話やメールは毎日のように続き、私はそれを無視し続けた。



 私の態度に杏子が何かあったのかと心配していたけど、杏子には何も言わなかった。



 直人に抱かれた事も、杏子に言っていない。あの日の事は忘れた方が良いと強く思い始めていた。





 十月に入り衣替えが終わると校内は文化祭間近で、みんな妙に浮き足立っているように思えた。



 文化祭はクラス毎に催し物をする事になっていて、私のクラスはたこ焼き屋を出すと決まったらしい。



 いつも杏子と二人でいて、何となくクラスから浮いてる私達だったけど、文化祭の準備を手伝わない訳にはいかなくて、クラスの女子に暖簾を作って欲しいと言われ、私と杏子は二人だけで暖簾を作る係になった。



「超面倒臭いんですけどぉ」


 暖簾を作る係に任命された日の放課後、暖簾用の布を買いに駅前に行く道中、愚痴を零していた杏子は、必要な物を買い終わると、



「……ケンのとこで作る?」


 荷物を抱えながら少し遠慮がちに私の顔を覗き込んだ。



 あの日以来、溜まり場には一度も行っていない。



 最初の頃は杏子も毎日誘ってきたけど、色んな理由をつけて断り続けてると、いつの間にか誘ってこなくなった。



 もしかすると杏子は、私と直人の間に何かあったと薄々気付いていたのかもしれない。



 だからこの日杏子が誘ってきたのは本当に久しぶりだった。



 何をどう思って誘ってきたのか分からないけど、本当に久々で、



「……うん。いいよ、ケンちゃんとこでも……」


 私はそう返事をした。



 杏子の誘いに乗ったのは、心のどこかで直人に会いたいと思っていたからなのか、それとも夏休みの頃ほど、直人の事を想っていなかったからなのか分からない。



 でも心の中で漠然と、もう大丈夫だと思っていた。



 会ったところで何も感じないだろうと、何故か思っていた。



 だけど実際、溜まり場の前に立つと物凄く緊張した。



 もう外は薄暗くなっていて、いつもの部屋から漏れる明かりに息を呑んだ。



 そんな私の手を握り、杏子は階段を上がっていく。



 その手の温かさに、少し安心した。



――何も言えなくてごめんね。付き合ってる訳でも、好きと言われた訳でもない直人に抱かれた事を言って、軽蔑されるのが怖いんだ。



 前を歩く杏子の背中を見つめ、心の中で何度もそう謝る。



 その謝罪が伝わる事はないだろうけど、とにかく謝り続けた。



 ドアの前まで来ると、部屋の中からみんなの話し声が聞こえてくる。



 私は無意識にその話し声の中に直人の声を探していた。



「ばんちゃ!」


 ドアを開けた杏子が、元気よく中へ入って行く。



 その直後に、「おぅ、晩和」「今日、遅かったじゃん」「何だ? その荷物」と、みんなの声が飛んでくる。



 そんな中、まだドアの向こうにいた私は、気遅れしながらも「こんばんは」とソッとドアから顔を出し――…近くにいたハルと目が会った。

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