第3話
◇
「ヘレナ。お前、どこへ行っていた」
帰宅後、父にそう問われ唇を曲げた。トレモロへ会いに行ったと素直に言えば、きっと叱られる。私は斜め下を向いて「森へ行っていた」と溢した。「嘘をつくな」と怒鳴られ身が強張る。
「嘘を言って、どうなるのです」
「……全く。その生意気な態度は、トレモロに感化されたんだな。あいつはお前にとって悪影響だ」
「そんなことない」。私は鋭い声で叫んだ。目の前にいる父を睨み、泣くのを堪える。彼は私を見下ろしたまま、黙っていた。やがて、息を吸い込み長々と吐き出した。腕を組み、踵を返した父がこちらを見ずに呟いた。
「まぁいい、仲良しごっこができるのも今のうちだけだ」
その言葉の意味が分からず、眉を歪める。まるで、トレモロと私が離ればなれになるような言い草ではないか。自室へ帰っていく背中を変わらぬ眼光のまま睨みつけ、放たれた言葉の真意を探る。しかし、見つけだすことができずに、曇天のような気持ちを孕ませた。
◇
トレモロの家に着いた途端、何故か彼女は私を拒絶しなかった。淹れたての紅茶を渡し、朗らかに微笑んだ。いつもとは違う歓迎を受けながら、妙に片付いた部屋内をぐるりと見渡す。本が纏められ、部屋の隅に積まれている。
「どうしたのです? いつもと雰囲気が違うような……」。私は彼女から紅茶の入ったカップを受け取り、おずおずと問うた。彼女は椅子へ腰を下ろし、息を吐き出す。その仕草が父と似ていて、少し気分が悪くなる。かぶりを振り、父の幻影を頭から消去した。
「結婚するんだ」
叔母が何処か悟ったような瞳をしていた。窓の外を見つめ、ぼんやりと呟く。
私は何も言えないまま、体を固まらせた。喉の奥が引き攣り、うまく唾液を嚥下できない。彼女が何を言っているのか分からず、目の前が歪んだ。
「……兄が紹介してくれたんだ。子を産めなくても、私を嫁に欲しいそうだ」
「そんな……」
「だから、明日にはこの国を出る。結婚相手は、海を渡った先にある大陸に住んでいるらしくてな」
なんと唐突な。私は持っていたカップを落とす。パリンと音が響き、紅茶が床に散った。叔母は怒らなかった。その様子を見つめ、どこからかボロ雑巾を持ってくる。体を屈め、床を丁寧に拭っていた。
「皮肉なものだな。こんな形で、ずっと行きたかった大陸へ向かうだなんて」
項垂れた姿は、哀愁を漂わせている。私は震える唇を噛み締めた。
「相手はね、とてもいい人らしい」
トレモロが顔を上げる。疲れ切った表情で無理に笑う彼女は、もうすっかり希望を無くしていた。割れたカップの破片へ手を伸ばす。いつも凛としていた彼女のものとは思えないほど頼りない指先が、ワルツを踊っているように動く。そんな馬鹿げたことを、脳の隅でぼんやり考える。
「……女ってのはみんな、こうなる運命なんだ」
彼女がひとりごちる。やがて、ゆっくりと視線を上げた。
「お前だけには、こうなってほしくない。好きでもない相手と番って、その後の人生をただの暇つぶしとして生きるような、人間には────」
そう言い、彼女は俯く。「いや、今のは忘れてくれ。すまないな。私は結婚相手と、幸せになるよ。お前も夢を叶えて、幸せになってくれ」。かちゃりと破片同士が擦れる音が、妙に耳の奥にこびりつき、渦を巻く。私は何も言えないまま唇を噛み締めた。そのまま、家を後にする。走り出した私の背中に、トレモロは何も言わなかった。
◇
石畳の坂を登り、家の隙間をすり抜ける。階段を登って、ひたすら城の方へ走った。呼吸が乱れ、涙が頬を伝う。鼻水を啜りながら、目元をぐいと拭った。
絡まりそうになる足を必死に動かし、城門の前までたどり着く。鼓膜がぐわんと揺れ、眩暈がした。こんなに急いで走ったことは今までにない。故に、心臓がバクバクと脈を打っている。
涙で霞んだ視界の中、門番が見えた。こちらを一瞥し、唇をへの字にしている。涙でぐちゃぐちゃになった顔をしながら、呼吸を乱し近づいてくる私を見て、さらに怪訝そうな顔をした。
「なんだ、お前は。あっちへ行け」
「じょ、女王、女王に、あ、会わせてくださ……」
「はぁ? なんだお前?」
嗚咽混じりに言葉を溢しながら、門番に近づく。彼らは私を妖怪を見るような目で見つめ、顔を引き攣らせた。
息を整え、深呼吸をした。
「女王に、お話があるんです」
「知らん。帰れ!」
面倒くさそうに顎で指示をされるが、しかし。諦めまいと食らいつく。
「お願いします、重要なことなんです!」
「どうか、しましたか?」
前のめりになった私をシッシッと手で追い払った門番が体を大袈裟なほどに跳ねさせた。まるで錆びた時計の針のようにゆっくりと振り向く。
そこには女王────シーミレが立っていた。手で口元を抑え、首を傾げる彼女に、すかさず敬礼をする。
「散歩をしていたら、声が聞こえたので……何か、揉め事ですか?」
「い、いえ、たいした事は────」
「では、なぜこんな幼い子供に怒鳴ったのです?」
シーミレに問われ、門番はグッと息を呑んだ。彼女の背後にいた神経質そうな女性が、肩に手を置く。「女王様、このようなことに首を突っ込まなくて良いです」と告げる。
踵を返し、帰ろうとする背中を見て、自分が何故ここにきたのかを思い出し、声を張り上げた。
「じょ、女王、待ってください、シーミレ女王!」
私の張り上げた声に、彼女は振り向く。
「明日、トレモロねえさ……トレモロがこの土地を去ります。結婚するんです。海を渡った大陸へ行くんです! あなたとトレモロは深い仲だったはず。お願いです、明日の朝、トレモロに会いにきてください、お願いです!」
「え……」。一言呟き固まった彼女を、お付きの人間が強引に引き摺る。私の方を見ながら城の中へ消えていくシーミレは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
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