第4話


 翌日。嫌味なほどに空は晴れていた。清々しい朝は、トレモロの門出を祝っているように見えた。彼女の荷物はひどく少なく、なんだかそれが妙に悲しく思えた。


「……見送りなんか、いいのに」


 悲しげに微笑む彼女は「でも、嬉しいよ。ありがとう」とひとりごちた。いつも愛用しているワンピースが風に煽られる。髪を抑える彼女を横目に、もうこの姿を見ることはできないのだと思うと胸が締め付けられた。


「トレモロ姉さん」

「なんだ?」


 彼女が私を見た。いつも通りのトレモロに、眩暈さえ覚える。


「絶対に、幸せになってください」

「……あぁ」


 肩を竦めた彼女は、遠くから走ってくる馬車に手をあげる。私は迎えが来てしまったことにひどく胸をざわつかせた。

 ────もう、さようならなのか。

 不意に、脳裏に女王の顔が浮かぶ。結局、彼女は来てくれなかった。


「……ヘレナ。お前は好きに生きて、好きな道を歩むんだ。誰に何を言われても、自分を曲げないように。な?」


 頭を撫でられる。瞬間、私は彼女に抱きついた。微かな体温がじんわりと滲む。背中に回した手に力を込める。


「可愛い私の姪っ子。いつまでも愛してる」


 トレモロがそう言い、額に唇を押し付ける。無意識に涙がボロボロと溢れ出た。

 あなたと海の向こうへ渡り、幸せな日々を過ごしたかった。

 そう告げることができず、喉を震わせる。


「泣き虫め」


 トレモロがいつもの意地悪な笑みを浮かべ、目の前に到着した馬車に乗り込む。この馬車は、きっと港へ向かうのだろう。そこへ行って仕舞えば最後。船へ乗り、彼女は海の向こうへ渡ってしまう。

 行かないで。そう言いそうになった言葉を必死に飲み込む。


「ヘレナ。さよならは言わない。また、会おう」


 彼女が窓から身を乗り出す。


「願わくば、旅人になりたいという夢を叶えたお前と、再会したい」


 私はハッと目を見開く。トレモロは微笑んでいた。


「絶対に、絶対に会いに行きます。夢を叶えます。だから、それまで、待っていて」


 トレモロが力強く頷く。涙を堪えた彼女は顔を引っ込めた。

 馬車が動き出す。トレモロを乗せた、馬車が。どうすれば止めることができるのか。そればかりを考えてしまう。

 私がもう少し大人なら、彼女を引き止めることができただろうか。時代や生まれた場所が違えば、彼女は自分の好きなように生きることができたのだろうか。

 今考えても意味がない事柄が頭をぐるぐると巡る。


「トレモロ!」


 瞬間、澄んだ空気に鋭い声が響いた。振り向くと、そこには馬に乗ったシーミレが居た。彼女の前で馬を扱っていた女性────彼女は確か、昨日シーミレの後ろに立っていた神経質なお付きの人だ────が「女王、早く」と促す。ひょいと馬から降りた彼女は、必死に走りこちらへ近づいた。


「トレモロ、トレモロ、トレモロ」


 何度も名を呼ぶ。まるで今まで離れていた年月分の名を呼ぶように。馬車の窓から、トレモロが顔を出した。目をまん丸とさせ驚いた表情を見せた彼女に、シーミレが声を張り上げる。


「大好き、今でも好きよ。好き、好きよ。お願い、どうか、元気で」


 震えた声は、トレモロの耳に届いたのだろう。彼女は声に出さず、口を動かした。「私も」と形を作った唇は震え、目から大粒の涙を流していた。

 女王はその場に崩れ落ち、肩で呼吸を繰り返している。「ずっと、ずっと今でも、好きよ」。ひとりごちた言葉は、馬車に乗り、顔も知らない男の元へ嫁ぐ女へは届いていない。


「……私も」


 ずっと、好きです。言葉の続きを言えないまま、遠ざかる馬車を見つめる。トレモロは姿が見えなくなるまで、窓から顔を出していた。

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