第2話
◇
「トレモロ姉さん。明日、私と遊びに行きませんか?」
「しれっとこの家に居座るんじゃない」
私は彼女が用意した紅茶を啜る。家に居座るなと言いながらも紅茶を用意してくれるトレモロが、私は好きだ。叔母は本を読んでいた手を止め、唇を曲げた。
「行きませんか?」
「行かん」
「何故です? 」
私は彼女の膝下まで擦り寄り、上目遣いをする。トレモロには私の愛くるしいまなこが通用しないのか、指先で額を弾かれた。
「暴力反対です。姪っ子をいじめて楽しいですか?」
「煩い。いい加減、家へ帰れ」
帰りたくないんです。家が嫌いなんです。父親と母親が嫌いなんです。ずっと貴方と居たいんです。そう言いたかったが、喉の奥で言葉を殺した。彼女に伝えて、鬱陶しい餓鬼だと思われたくなかったからだ。(常日頃の行いのせいで、既に鬱陶しい餓鬼だと思われているだろうが……まぁ、そこはご愛嬌だ)
私は唾液を飲み込み、息を吐き出す。
「行きましょうよ。私、トレモロ姉さんとデートがしてみたい」
叔母は訝しげに眉を歪めた。「デェトだと?」と今にもゲボを吐きそうな顔で私を見つめている。「えぇ、そうです。デートです」と平然とした口調で返すと、彼女はフンと鼻を鳴らした。
「そういうのは、年頃の男と済ませるものだ」
「……でも、私はトレモロ姉さんと行きたいのです」
「一生に一度のお願いです。聞いてくれませんか?」と可愛い子ぶって首を傾げてみる。彼女は片眉を器用に上げ、忌々しい生き物を見る視線を私に投げたが、やがて根負けしたのか、肩の力を抜いた。私に軍配が上がったらしい。内心ガッツポーズをしつつ、彼女に寄りかかった。
「行ってくれるんですね?」
「……あぁ。どうせ、外を歩き回るだけだろう。お前の父親に見つからないように注意しながら、ならいいぞ」
「わぁい、ありがとうございます」
両手を上げ、嬉しがると、トレモロは肩を揺らし笑いながら「お前も子供っぽい喜び方をするんだな」と言った。私はほんの少しだけ恥ずかしさを覚え「だって子供ですから」と返した。
◇
「どうです? 美味しいでしょう?」
叔母はサンドイッチを片手に顔を顰めた後「そうだな」と呟いた。私はフフンと鼻を鳴らし、卵がふんだんに使われたソレを頬張る。
「前に同級生があのお店を教えてくれたんです。凄く美味しいですよね。トレモロ姉さんなら、気に入ってくださると思ってました」
照りつける太陽が、石畳に反射してキラキラと輝く。街の一角に設置された噴水の淵に腰を下ろし、食事をしていた私たちを焼いた。
彼女を連れまわし、デートを楽しみ、腹を膨らませた私は満足だった。チラリと叔母を見る。一口がとても小さい彼女は、まだ食事を終えていなかった。噴水から溢れる水が、背中を微かに濡らす。
「ねぇ。トレモロ姉さん」
私は彼女の空いた手へ、指先を伸ばした。握りたいと思った。「どうした?」と彼女が此方を振り返る前に、街全体が騒がしくなった。
「女王が来たぞ。女王だ。シーミレ女王だ。皆、早く外へ出ろ。女王がここへやって来るぞ」。ガヤガヤと騒がしい街の人間たちは、一様に女王の名前を呼んでいた。
シーミレ女王。彼女は若くしてこの国の王であるドュシに魅入られ、女王になったお方だ。彼女がまさか、街を練り歩くとは。
私は騒ぎに便乗するように、叔母の手を引いた。
「女王を拝みに行きましょう!」
私の弾む声に彼女は顔色が悪くなり、視線を下に向けた。具合でも悪いのだろうか、と彼女を労ろうとした途端、大通りで歓声が上がる。「女王だ」。老若男女問わず、様々な声が聞こえた。「女王万歳」と繰り返す声が轟く。
「トレモロ姉さん、大丈夫ですか? 具合が悪いのですか?」
「……いや、平気だ。それより、女王が通り過ぎるぞ。見に行こう」
彼女は顔を引き攣らせ、ゆっくりと歩みを進めた。「無理なさらずに」と彼女の手を引きながら大通りへ出る。人混みを押し退け、女王が見える位置まで到着する。
彼女の周りには笑み一つこぼさない厳格な護衛たちが居て、女王が乗っている豪華な馬車を守るように練り歩いていた。
背の高い馬車から見えた女王に、私は手を振った。
「シーミレ女王!」
声に反応したのか、女王が此方を見た。途端、ハッとしたような顔をする。何故だかその瞬間、時が止まった。
シーミレは此方を見ている。が、正確には、私の真横を見ている。真横には────。
「……」
トレモロは女王と目が合った瞬間、顔を背け、静かにその場を立ち去った。「待って、トレモロ姉さん」。私は声を張り上げ、彼女の薄い背中を追う。チラリと女王へ視線を戻したが、彼女は未だに表情を固まらせたまま、此方を見ていた。
「トレモロ姉さん、待ってください」
人混みを押し退け、ようやく彼女に追いついた。が、叔母は此方を見る気配がない。押し黙ったまま、顔を俯けている。ふらりと歩みを進め、先ほどの噴水まで帰った彼女は淵に腰を下ろし、深々と息を吐き出した。
私はそんな彼女のつむじを見下ろす。
「ど、どうしたんです? 」
精一杯、心を落ち着かせてトレモロへ問う。彼女は肩を落としたまま、ぴくりともしない。その隣に腰を下ろし、彼女の顔を覗き込む。
「……トレモロねえさ────」
「私とシーミレは恋人同士だったんだ」
「え!」と叫んだ声がこだまする。風が吹き、彼女の細い髪を揺らした。トレモロは乾いた唇を舐め、やがて口を開く。
「……子供同士の、拙い恋愛さ。私もあいつも、当時は恋だの愛だのについて詳しい方じゃなかった。だから、男を知る前の、幼稚な……ただの遊びの延長だった」
トレモロの横顔は、とても悲しいものであった。私は無意識に息を止めていたらしく、急いで肺へ酸素を送る。バクバクと心臓が脈を打ち、額に汗が滲んだ。
「……紛い物の感情といえど、私は真剣だった。シミーレが私をどう思っていたかどうかは、今では知る術がないがな」
ふふ、と下手くそな笑みを浮かべる叔母。彼女の細い肩が微かに揺れた。
「……一緒に、海を渡った先にある大陸へ行こうと約束していた。そこでなら、もっと自由に暮らせるはずだと夢見ていた。けれど────」
昔から、彼女はそういうものが好きだったのだなとぼんやり思った。
「ある日、この国の王子がたまたま見かけたシミーレに恋をしてしまってな。あいつは気に入られ、王子の恋人となった。そして……今に至るってわけだ」
浅くため息を漏らした彼女は「子供にこんな話をすべきではなかったな」とひとりごちた。私は口の中に溜まっていた唾液を嚥下し、言葉を溢す。
「……今でも、好き?」
そう問われ、彼女は私へ視線を投げた。見開いたコバルトブルー色の目が、今にもこぼれ落ちそうだ。やがて目尻に皺を寄せ、微笑む。
「どうかな。まぁ、少なからず……男を知った今でもあいつのことが記憶から消せない程度には、好きかな」
ポツリと呟き、髪を耳にかけた。その仕草が未亡人のように見え、目が釘付けになる。噴水から散る水飛沫が頬を掠め、肌へ沁みた。
「もう、忘れなさい。いいね?」
トレモロが悲しげに微笑む。ゆっくりと立ち上がり、私の手を引いた。歩みを進める彼女の背中は薄く、そしてか弱い。掴まれた手首から伝わる体温は心配になるほど低くて、私は何故か泣きそうになった。
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