[百合]恋する旅人

中頭

第1話

 叔母の家は私の家からそう遠くない。家から出て石畳を歩み、左手に見える細い階段を登った先。数軒並ぶ家々の中でやけに目立つ、焦がした赤色のような煉瓦でできた壁。錆びついたポストと、その隣に置かれた枯れかけの鉢植えが目印。其処が彼女の家だ。

 私はいつも通り、軽やかな足取りでそこへ向かう。体当たりしてしまえば突き破れそうなほど古びたドアを軽く叩き、声をかけた。


「トレモロ姉さん、いますか?」


 問いに、返る言葉は無い。私はその様子を気にすることなく、ドアを開ける。中には、窓から漏れる太陽光を浴びながら読書をする叔母がいた。叔母は此方を見るなり、心底嫌そうな顔をし、唇を歪める。


「……入って良いと許可したか?」

「じゃあ、許可を下さい」

「……ゴロドに言い付けるぞ」

「止めてください。父に告げ口されると、二度とトレモロ姉さんに会えなくなる」


 私は彼女の傍らに置いてるテーブルの上に乗ったカップを取り、その中身を飲み干した。口元を拭い、カップをもとの場所に戻すと、叔母はまるで虫けらを見るような眼差しを私へ向けた。「ご馳走様です」と礼儀よくお辞儀すると、その手に持っていた分厚い本で私の頭を叩く。


「痛いです」

「不法侵入された挙句、読書の邪魔をされ、紅茶を勝手に飲まれた私の身にもなれ」

「あんまり美味しくない紅茶でした」

「手を出せ。中指を折ってやろう」


 彼女の悪態を無視し、私は窓辺に腰を掛ける。外は息苦しいほど暑く、燦々と太陽光が降り注いでいる。蒸せ返るような光景を眺めていると、トレモロが息を吐き出した。


「……ヘレナよ」

「なんでしょう、トレモロ姉さん」

「此処へ来た事がバレると、またゴロドや母親にとやかく言われるぞ。病気が移る、とな」


 叔母へ視線を投げる。彼女はそのコバルトブルーの瞳を此方へ向けていた。


「トレモロ姉さん。私、学校の先生に教えてもらったのです。不妊は移るものでは無いそうで。海を渡った大陸では、もうすでに古臭い価値観だそうな」

「……そうかい。でも、この国では近づくと移るんだとさ。ほら、帰れ」


 「あと、そんな事を言っていると他の連中から忌み嫌われるぞ。此処の奴らは外から知識を得た者を嫌う傾向がある」。そう言いながら他国の言葉で書かれた本をテーブルの上に置き、立ち上がるトレモロの後を追う。どうやら紅茶を淹れ直すらしい。「私にも下さい」と後ろから声をかけると再び大きなため息をつき、棚からカップを取り出した。

 キッチンに佇むその後ろ姿。乱雑に纏められたダークブロンドの髪と、猫背気味の体。哀愁漂う古ぼけたワンピース。見惚れるようにぼんやりと眺めていると、不意に彼女が踵を返す。

 「これを飲んだら大人しく帰れ」と吐き捨てながら渡された仄かに暖かいカップを受け取る。私は満面の笑みを浮かべ、あまり美味しくない異国の紅茶を啜った。



 叔母に別れを告げ帰宅した時には既に外は夕陽に染まっていた。「いつまで居座るのだ」と眉間の皺を深くさせた彼女は私の去り際に「二度と来るな」と声を荒げた。いつもそうやって彼女と別れる。次の日、また私が訪問すると知っているのに。そんなに嫌なら、ドアに鍵でも付ければいいものを。不用心なのが悪いのだ。

 私は鼻歌を奏でながら、夕食の匂いが漂う石畳を歩む。薄暗い街に灯る明かりに気を取られつつ、自宅へ帰還した。

 母や父にバレぬよう、と静かにドアを開けたが、努力も虚しく────気配を感じ取った父に首根っこを掴まれ、家の中へ引き摺り込まれた。


「ヘレナ。今迄どこへ行っていた」

「父さん。苦しいです」

「ヘレナ。答えなさい」

「母さん。これは暴力では?」


 私は怪訝そうに此方を睨んでいる二人の顔を交互に眺め、息を漏らした。その仕草が気に食わなかったのか、父が手を離す。バランスを崩した私は床に倒れる。拍子に夕食が並んだテーブルの足にぶつかり、声を漏らした。当たった肩を摩りながら、両親を見上げる。ライトに照らされ、逆光になっていた二人の表情は読み取れなかったが、怒っているということだけは分かった。ばつが悪くなり、唇を尖らせる。


「学校終わりに何処へ行ってたの」

「ロロナの家へ遊びに行ってました」

「嘘おっしゃい」

「なぜ娘を疑うのです」

「どうせ、あいつの元へ行っていたのだろう。病が移るから止めるんだ。将来、子供が産めない体になってもいいのか」


 私が子を産む前提で話を進めないで欲しいものだ。深々と息を吐き出し、立ち上がる。「待ちなさい」と言う母の静止も聞かずに二階へ駆け上がり自室へ飛び込んだ。綺麗に整頓されたベッドへ潜り込み、膝を抱える。

 一階からは母を怒鳴りつける父の声が聞こえる。「お前の育て方が悪いんだ。昔はあんな子じゃなかっただろう」。劈くような怒号を断ち切るため耳を塞ぎ、目を瞑る。

 こんな家、もう嫌だ。早く出ていってしまいたい。海を渡った先にある、大陸へ行きたい。そこではきっと、トレモロも病気扱いされず、幸せに生きていけるはずだ。

 ────いつか彼女の手を引き、憧れの異国へ。

 徐々に瞼が重くなってくる。私は薄れゆく意識の中、何処までも広がる青と、降り注ぐ太陽の下で微笑むトレモロの笑顔を見つめた。



 私の夢は旅人だ。この国は閉鎖的で、偏見があって、私にとって息がしづらい。

 私のこの考えは、トレモロから受けた影響だ。彼女は遠くの国にある本を読んだりして、異国のものを楽しむ。

 私の「色んな世界を見たい」という言葉を笑わないのは、彼女だけだった。他の連中は小馬鹿にしたように笑い「他の国に憧れるだなんて、変わっている」と蔑んだ。その目と、歪んだ唇が、私はこの世で最も嫌いなものの一つである。

 「お前は、夢を叶えてくれよ」。トレモロの口癖だ。私の旅人になりたいという言葉を受け、笑顔で頷き、そうひとりごちるのだ。

 「一緒に行きませんか?」。私は彼女に何度も問いかけた。けれどトレモロは首を横に振り「こんなおばさんには無理だよ」と悲しげに微笑むのだ。

 私は、そんな彼女が少し憎い。子が産めないからと血縁関係にある家族に毛嫌いされ、周囲からものけ者扱いされ、それなのに抵抗一つしないで、ただひっそりと本を読む。「海を渡った先にある大陸ではな────」と嬉しそうに語るくせに、自分では一歩を踏み出さない。

 トレモロはずっと、教員になりたかったらしい。けれどこの国では、女が人の上に立つ職に就くことが許されていない。大抵の女は家庭に入り、子供を産み、家族を支えるのだ。

 「その選択肢を取ろうとしないお前を、誇りに思うよ」と彼女は言う。本心ではきっと、トレモロも外の世界へいき、自由に生きたいはず。だからこそ、自分の果たせなかった夢を、私に押し付けているのだ。

 ────トレモロ姉さんは臆病だ。

 私は、幼心に彼女に対する不満感を抱いていた。

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