第6話 武士道
日本文化の精神論として、根強く日本人に親しまれているものとして、
「武士道」
というものがある。
「武士道とは、死ぬことと見つけたり」
という言葉が有名な、
「葉隠れ精神」
というのも、その一つであろう。
それが、時代においては、
「禁書」
とされたり、あるいは、
「ベストセラー」
となったりもした。
ベストセラーとしては、
「虜囚の辱めを受けず」
と言われた、
「戦陣訓」
としての、
「捕虜となることを思えば、潔く命を捨てるのが、日本人であり、大和魂だ」
ということで、
「死ぬことと見つけたり」
という、武士道と同じものだという発想になるのである。
しかも、日本人としては、
「同じ死ぬなら、相手の兵を一人でも巻き込んで死に至る」
ということで、
「おびき寄せて、手りゅう弾を爆発させて死に至る」
という、一種の自爆テロに近いものがあったのではないだろうか?
「そんなものはテロではなく、自殺だ」
という人もいるかも知れないが、実際に、はその通りだった。
それを、戦時中は、
「玉砕」
という言葉で正当化していたが、結局は、自殺であることに変わりはなく、
「何と言われてもそれは、きれいごとでしかない」
ということだ。
それが、今度は、本当の自爆テロということで、大東亜戦争末期には、
「神風特攻多雨」
という形になって現れるのだ。
誰が、
「神風作戦で戦争に勝てる」
などと思っているというのか、考えられることとすれば、
「いずれやってくる、本土決戦に対して、軍や国民の士気を落とさないといけない」
ということでの、一種の、
「時間稼ぎでしかない」
ということなのかも知れない。
実際に、木製の戦闘機に乗って、燃料は片道のみ、
「敵に落とされるか」
あるいは、
「敵に突っ込むこともできず、そのあま海に落下するか」
あるいは、
「敵艦めがけて急降下で、本懐を遂げるか」
ということのどれかであろう。
要するに、選択肢の中に、
「生き残り」
ということは許されない。
出撃すれば最後、
「帰還はありえない」
ということである。
これは、イスラム教などにおける、
「自爆テロ」
というものに、発想は似ているのかも知れない。
つまりは、発想は、
「宗教」
ということになる。
となると、日本における
「武士道」
というのは、宗教がらみということになるのだろうか?
そもそも、宗教という考えも怪しいもので、
「自爆テロ」
では、
「この世でいいことをしておけば、あの世で極楽にいける」
ということである。
その宗教では、
「人殺しを正当化している」
ということであろう。
キリスト教などでは、いくつか、おかしなところがある。これはその前進である、
「ユダヤ教」
にも言えることだが、
「モーゼの十戒」
というものがあるのだが、それが、旧約聖書にしるされていることから、キリスト教だといってもいいだろう。
その中の一つに、
「人を殺めてはいけない」
というものがある。
要するに、
「殺人は許されない」
ということである。
それなのに、今起こっている
「アラブとイスラエルの戦争」
これこそ、宗教戦争であり、
「キリスト教と、イスラム教の戦争」
ということであり、ずっと累積して、
「人が日常的に殺されている」
というわけである。
何といっても、
「戦争が起こる原因の多くは、宗教戦争である」
と言われている。
「かつての十字軍であっても、立派に宗教戦争ではないか?」
ということである。
人を殺めてはいけない」
ということではなかったのか?
さらに、一つの疑問を呈するものとして、日本における戦国時代の、
「関ケ原の合戦の前夜」
というものである。
戦国大名の中に、
「細川ガラシャ」
という女性がいたが、この人の物語が、
「何か、辻褄の合わない発想」
という風に見えるのは、気のせいであろうか。
彼女もキリスト教で洗礼を受け、
「ガラシャ」
の称号を得ていて、世の中が、戦国時代ということで、
「戦国の悲劇の女性」
と言われているのであった。
細川ガラシャというのは、洗礼名であり、本名は、
「玉」
という。
夫は、戦国時代でも文化人としての誉れの高い、細川忠興という、戦国武将である。
ただ、問題なのは、父親であった。彼女の父親は、
「本能寺の変」
で、主君である織田信長に対して謀反を起こしたことで、のちに、羽柴秀吉に滅ぼされた、
「明智光秀」
なのである。
元々、織田家でも、室町将軍や、朝廷に対して、
「交渉ができる」
ということで、信長に重宝がられたことで、織田家でも、重鎮とみなされていたのだが、
「延暦寺の焼き討ち」
「母親を見殺しにされた」
「四国平定で顔をつぶされた」
「現在の丹後や摂津などの領地を召し上げられ、まだ自分の領土になっていない、出雲、石見を切り取り次第に与える」
と言われたことなどと、数多くの恨みから、信長に反旗を翻したのだったが、なんといっても、
「戦国時代最大の謎」
と言われている、
「本能寺の変の黒幕説」
という話が出てくるくらいに、謎な部分が多いのだった。
しかも、
「本能寺の変」
が起こってからというもの、ほとんどの武将が、
「明智にはつかない」
と表明したことで、孤立無援になった。
しかも、娘を嫁がせた細川家では、その玉を、幽閉するという強硬手段にまで出たくらいで、
「明智ほどの冷静沈着で、戦上手でもあるはずの男に、誰もつかない」
ということが、そもそもおかしなことである。
それこそ、
「本能寺の変」
というものが、最初から仕組まれていたものだとしか思えないではないか?
結局、明智光秀が滅ぼされてから、弾は幽閉を説かれ、キリスト教に入信し、旦那に尽くすという運命を受け入れた形だったのだ。
しかし、豊臣政権が危機に遭遇した時、夫の忠興は、
「家康側」
についていた。
関ヶ原前夜」
として、家康が、上杉征伐に出かけた時、相手の三成が、
「好機至れり」
とばかりに、挙兵をしたのだ。
その時、家康の討伐軍として大阪を離れていた武将たちの屋敷に、西軍は襲い掛かり、
「家族を人質にして、こちらにつかせよう」
という戦法を取ったのだ。
そもそも、光成という男は、配下の島左近のいろいろな作戦を、
「卑怯なことはできない」
と言って、突っぱねたはずなのに、
「人質にとる」
ということを卑怯なこととしなかったというのがありなのか?
ということであった。
だが、その作戦のせいで、細川屋敷で、光成軍に包囲された玉は、
「このままでは、旦那に迷惑をかける」
ということで、自害を思い立ったという。
しかし、
「キリスト教では、
「人を殺めてはいけない」
ということで、
「自害も許されない」
ということであった。
そのために、弾が行った行動とすれば、
「配下の武将に、自分を殺させる」
ということであった。
これは、少し、
「どうなのだろう?」
と考える。
確かに、
「人を殺めてはいけない」
ということで、自殺も許されないということであれば、配下の人間に自分を殺させるということになるだろう。
しかし、そもそも宗教というのは、
「この世で戒律を犯したりしなくて、いい行動をしていれば、あの世で極楽に行ける」
というような発想からきたのではないだろうか?
ということを考えると、
「では、配下の人間はどうなるというのか?」
ということである。
配下の人間には、自分を殺させるという、
「罪を犯させる」
というわけで、それが許されるのが、キリスト教だというのだろうか?
確かに彼は、
「兵士」
であり、実際に、それまでに、
「何人も敵を殺めている」
ということになるのだろう。
しかし、それは、
「一種の屁理屈」
というものであり、弾の行動は、
「自分が極楽にいくために、配下の人間を犠牲にしてもいい」
ということなのだろうか?
配下の人間だって、一人の人間。自分のために、敢えて、その戒律を破らせていいのだろうか?
「彼は信者ではない」
ということで、差別するのであれば、
「何が宗教の教えだ」
ということになるであろう。
それを考えると、弾の行動は決して許されるものではなく、
「自分のために、部下は犠牲にしてもいい」
ということになるのだろうか?
戦国時代という特殊な時代だから許されるのかも知れないが、どうにも納得のいくことではない。
ただ、その時の、
「敵に責められて、自害する」
という究極の精神状態に追いつめられると、思考回路がマヒするということもありえるということではないだろうか?
「細川ガラシャ」
という話は、ある意味、
「美談」
ということで言われているかも知れないが、考えてみれば
「本当に、それが正しいと言えるのだろうか」
ということになるのである。
そういう意味で、
「宗教というのは、戒律のようなものがあるせいで、考え方が雁字搦めになってしまうということからか、すべてを納得させるという結論に落ち着くということはありえない」
と言えるのではないだろうか?
そもそも、そうであれば、
「最初から、戦争などという悲劇が起こることはない」
ということになるであろう。
「武士道」
という観点であれば、
「細川ガラシャ」
の考え方は、少し違っているように思う。
これを美談としたのは、ひょっとすると、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
というところでの、
「葉隠精神」
から来ているということであろう。
しかし、そもそも武士道というのは、
「自己犠牲」
というものでなければいけない。
ということであれば、
「配下の人間に、自分を殺させる」
というのは、ありえないということではないだろうか。
配下の人を考えれば、
「自分を殺したことで、地獄に落ちるのだ」
と考えなかったのであろうか。
それが、自己犠牲とは別の考えになってしまったということであろうか?
それを考えると、
「戦陣訓」
などのような、
「相手を巻き込んででも、捕虜とならない」
という発想と結びついてくるのかも知れない。
「もし、球が自害をしようとして、その場にいたのが、本当に玉だったのか?」
という発想もあった。
「敵の狙いは、玉であり、忠興の家族」
なのである。
時代的に、
「影武者」
と言われるような、
「替え玉」
というのが、女性の中にいても無理もないと思うのは、どうなのだろう。
本当に、弾がそこで死んだのか?
ということも不思議に思える、
特に、
「奥さんを愛してやまない」
と言われた、忠興が、何の対策もしていないとは思えないというものだ。
「ひょっとすると、替え玉を使って、逃れたのかも知れない」
という考えは、あまりにも奇抜な発想であろうか。
それを考えると、玉の身代わりが、捕まったのか、あるいは、自害させられたおか分からないが、それで少なくとも、敵は、
「人質作戦を諦めた」
ということなので、この行動は、
「大変意義があった」
と言ってもいいだろう。
これが、
「細川ガラシャの話」
ということであるが、やはり、言い伝えられている話を、そのまま鵜呑みにしてしまうと、どうにも辻褄の合わないということは、相当にあるということなのであろう。
これが、宗教として、
「すべての辻褄を合わせる」
ということは、土台無理なこととして、結局、
「その中で、一番最善の方法をとるしかない」
ということになるのであろう。
「玉が替え玉だった」
と考えると、
「玉はどこに行ったのだろう?」
それこそ、
「戦国時代の眼に見えていない、人間消失事件」
なのかも知れない。
日本で、戦国時代に、
「同性愛」
というのが流行った。
しかし、他の時代には、細々としてではあったが、存在はしていた。しかし、細々としないといけないほどに、
「市民権が得られていた」
というわけではない、
もっといえば、
「群雄割拠の戦国時代だから、許されたのだ」
というのが、一番の正解なのかも知れない。
それを考えると、
宇宙人が地球に現れて、同性愛の風習を作り、そこに、武士道が絡んでいる」
という発想を感じた高橋は、
「これを小説にすればういいのではないか?」
と考えたのだ。
「まるで自分が宇宙人に洗脳されたかのような発想が頭をよぎった時、
「それが、小説のネタになる」
と思うと、結構な勢いで作品が出来上がっていった。
そもそも、書くスピードは結構速かった。スピードに関しては、
「誰にも負けない」
というくらいの気持ちがあったのだ。
ただ、分からないことが多いのと、宇宙人という発想が奇抜であり、さらに、それ以上に、
「調査して、それをいちいち書いても、しつこくならないだろうか?」
とも感じたのだった。
しかし、それはあくまでも、自分の勝手な発想であり、
「発想というものが、果てしないのが小説であり、最後に辻褄が合えばいいんだ」
と感じたことで、気が楽にもなった。
小説というものは、
「一度最後まで書き切れるかどうか?」
というものが、ミソだと思っている。
書けるかどうか、それは、普通に書こうとすると、まるで魔法にでもかかったかのように、最後には、
「それができれば、今頃プロだよな」
とばかりに、当たり前のように感じるのであった。
だから、
「小説を書くということが、どうすればできるようになるか?」
と考えるのが、まず最初であり、少なくとも、
「創意工夫が必要だ」
ということは当たり前のことだった。
そして、最終的に考えたのは、
「人と話ができるんだから、書けるはずだ」
と思ったことだった。
小説を書けるようになることと、
「話しているように、書くくせができる」
ということは、
「同意語ではないか?」
ということであった。
小説を書いてみると、もちろん、難しいこともあるし、書けないということの、
「言い訳」
というものをしたくなる気持ちだってあるというものだ。
小説を書いていると、、
「なぜ書けないのか?」
ということを考えながら書いている気がしてくる。
これは、書いている時に考えるわけではなく、別の機会に考えることではないだろうか?
それを思うと、
「話せるように書く」
というゴールがどこにあるのか? ということになるのであろう。
小説を掛けるようになると、今度は、そこから、
「書いているうちに、勝手に発想が生まれてくる」
ということに気づくようになる。
そうすると、
「ここから先は、俺の真骨頂なのだ」
と高橋は思ったのだが、それは人それぞれのことであり、ハウツー本には、あたかも、
「皆同じだ」
というように書かれているのかも知れないが、
「それはそれで違っている」
ということになる。
皆同じだったら、
「個性」
というものがなくなるわけで、クリエイティブなことに対して、個性がなければ、それこそ、
「AIにでもやらせればいい」
ということになるのだ。
今の世の中でよく言われる、
「20XX年問題」
などというのも、
「誰にでもできる」
という仕事の人手不足ではない。
特に、公共交通機関の運転手ともなれば、
「今日面接に来た人が、来週から従事できる」
などというわけではないのだ。
下手をすると、募集要項に、
「過去数年、この仕事に従事したことのある人限定募集」
ということになると、まず、応募してくるわけはない。
だからこそ、
「人手不足」
という問題が起こるのだ。
問題が起こり始めているから、躍起になって募集を掛けているのに、来ないから、
「20XX年問題」
などということになる。
そこで決まっていることとして、人手不足だから、それまで行ってきたサービスが、
「限界を迎える」
ということである。
例えば、配達業者などが、再配達をしようとすると、余計な労力になってしまうことは分かり切っている。
しかし、基本的に、今では共稼ぎであったり、一人暮らしが当たり前の時代に、昼間の時間が、配達先では留守宅だということは当たり前のことである。
自分たちだってそうやって昼間仕事をしているわけだから、それも分かり切っていることである。
要するに、
「分かり切っていることに対して、気づいているのかいないのか、どっちにしても、それをスルーしてきたことが問題なのだ」
ということだ。
「気づかなかった」
ということであれば、そもそも、会社経営するだけの力量がなかったということを示しているわけであり、
「気づいていた」
というのであれば、もっとひどい。
確信犯であり、しかも、それを放っておくわけだから、それは、
「逃げている」
ということになるのか、
「面倒なこと」
として考えたり、確かに、焦って結論を早めに決めてしまい、
「できなければ、取り返しがつかない」
ということにもなるのだろうが、それだけの問題ではない。
「スピードを要することだってあるわけで、
「機を逸する」
ということになると、こちらも、取り返しがつかなくなってしまう。
それが、今の人手不足の問題を形成しているのであって、
「少子高齢化」
であったり、会社側を見れば、
「年功序列」
「終身雇用の」
というものの崩壊が、ここにきて、ツケとして回ってきたといってもいいのではないだろうか?
そんな時代を、最近、高橋は考えるようになり、それが、徐実に見えてきたのは、
「世界的なパンデミック」
という大きな事件が、世の中の仕組みを露骨にあらわにしたことで、表面化してきたことだといえるだろう。
政府のように、
「給料さえ上げれば何とかなる」
という単純な問題ではない。
もし、
「給料さえ上げれば、問題のほとんどが解決する」
などという、
「お花畑的な発想」
を持っているのだとすれば、本末転倒なことであり、世の中が、
「うまくいくはずがない」
ということを証明するようなものである。
「海外で、戦争に巻き込まれた国に、ポンと金を出す」
というのは、
「お金が有り余っている国であればいいが、ただでさえ、借金で首が回らないといっていて、しかも、世界的なパンデミックにて、国土が焦土と化した、かの戦争における、国破れて山河在りを彷彿させる状態で、よく、他の国に金をばらまけるものだ」
ということである。
それこそ、
「国の自殺行為」
といってもいいだろう。
「余命数か月」
ということが分かっていて、使い切れないだけの予算があるというのであれば、その分だけ、寄付するということはあってもいいだろうが、そうならないようにするための努力もせずに、ソーリ一人のメンツだけのために、血税をばらまかれては、たまったものではなないだろう。
それが、今の日本という国の正体なのだ。
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