四ノ宮楓という女。…1

「お前が躾をしないから…っ!!私の顔に…っ!!泥を塗る事になったじゃないかぁぁぁぁ!!!!!!!!」


「きゃあっ…!」


 私の父だと語る見ず知らずの男が、家に着くなり私の大事な母親に暴力と罵声を浴びせた。


「なにしてんのっ!?」


 私は慌てて母を庇うように二人の間に入り込み、うずくまる母を抱きしめる。


 目に涙を溜め、ぶたれて赤くなった頬に手を添える母。


「お母さん!?大丈夫!?」


 正直、全く理解できない状況だった。


 それでも母が暴力を振るわれたのは事実。とにかく母を守らなければいけないという事だけはわかった。


「…楓。お前も同じだ。」


 私が威嚇のつもりでその男を睨みつけると、男は私以上に恐ろしい表情で私を見下ろしてくる。


「な、なんなのあんた!そもそも誰なのよ!!」


 大の大人の男性であるその迫力は凄まじい物で、まだ中学生でしかなかった私の体は震えた。


 …けれど、母の為に声を振り絞って対抗する。自分のことよりも、とにかく今は母をこの男から守りたかった。


 しかし、私のその抵抗を見た男の視線は、再び母に移る。


「私が現れた瞬間、呆気に取られた顔をしていたからまさかとは思ったが…お前、本当に何一つ私の事を教えていなかったのか」


 男はさっきまでの興奮状態で荒げたいた声とは打って変わって、低く冷たい声音で母を責め立てるように言葉を発する。


「ふん。姑息な真似を」


 それから、男は俯いて黙ってしまっている母親を、まるでゴミでも見るかのような目で嘲笑った。


 そして、また私に戻ってくる視線。


「楓。さっきも言ったが私はお前の父親だ。」


 その言葉は、あまりにも不快で、私の眉間に深くシワがよる。


「…本当に父親だっていうなら、なんで今まで帰って来なかったのよ?」


「大人には大人の事情があるんだ。」


「…意味わかんない」


「子供のお前には分からないだろうな。」


「…じゃあ、あんたが父親だとして…仮にも家族のお母さんに手を挙げた理由は?」


「そんなの決まっているだろう?」


「…なに」


「この女が馬鹿で役立たずのクズだからだ。」


「…は?」


 繰り返された質疑と応答。碌な答えが返ってこなかったけれど、しかし、最後に返ってきた男の発言には私の目は大きく見開いた。


 お母さんが馬鹿でクズ?…お母さんのどこを見たらそんな発言が出てくる?


 美人で、優しくて、博識で…


 そんなお母さんに対して、そんな評価をくだすだなんてありえない。


 ましてや、本当に父親だというのであれば、母と一度は愛し合っていたはずだ。その口からそんな感想が出てくるはずがない。


「私のお母さんを…馬鹿にするな…」


 私はこの男が完全に敵であると認識して、臨戦体制に入る。最悪の場合、握った拳を振るう事も考えた。


「ほう。随分従順に育て上げたじゃないか。」


 そんな私を見て、男は母を称賛するように手を叩く。しかし、それが称賛の意でないことは、母も私も理解していた。


「勿論皮肉だよ。私の子供の世話を任せてやったのに、この体たらく。優秀な子を育てるどころか、逆に私の顔に泥を塗る馬鹿な娘に育ってしまった。…本当に、何をしても使えない女だな。」


 そして更に母を罵倒する男。


 我慢の限界だった。


 母を馬鹿にした同級生の男子を殴った時と同じように、この男の顔面も…


「しかし楓。お前は騙されているぞ。」


「…は?何を言って…」


 …そう思った瞬間、男の意味深な発言を聞いて、まさに振りかざそうと握っていた拳を少しだけ緩める。あまりにも意味のわからない言葉であったが故に、怒りで埋め尽くされていたはずの脳が思考する事にリソースを割いた結果だ。


「ま、待ってください…っ!」


 そうして男からその言葉の意味を聞き出そうと睨みを利かせていると、ずっと無言で涙を堪えていた母が大きな声を出して間に入ってきた。


 今度は突然の母の行動に、目を丸くする。


 こんなに焦る母の表情も、大きな声も、生まれて初めて見る。だかこそ、それがどれだけ大変な事を意味するのかも理解した。


「…お願いします…っ!何でもしますから、罰なら受けますから…それだけは…」


 それから母は、父の前に這うように近づき、文字通り頭を地面に押し付ける程の深い土下座をした。


 当然だけど、状況が理解できない私の思考は全く役に立たない。分かるのは母が何かに怯え、男に何かを懇願しているという曖昧な事実だけ。


「お前が罰を受けるのは当然だ。何の引き換えにもならん。」


「っ…」


 しかし、男はまた酷く冷たい視線で、そんな母を一蹴する。


「楓。お前は、この女に随分懐いているようだがな…」


「ま、まって…!…あぁ…っ!」


 男の発言を止めようとしたのだろう。


 母が縋り付くように男の足に手を置いた瞬間、今度は言葉通り蹴り飛ばされ、私の方へ倒れ込んできた。


「お母さ…っ」


「その女は、お前の実の母親じゃないぞ。」


「…………え?」


 そして、お母さんを受け止めたと同時に、男から信じられない言葉を告げられる。


「あぁ…ぁぁ…」


 その発言が、その真実が、私の耳に入ったことが余程ショックだったのだろう。母は私の腕に抱かれながら、両手で顔を覆って声にならない声を発して泣いていた。


 しかし、私にはそんな母を気にする余裕なんてなくて。ただ男を見上げることしかできなかった。


 そんな私達を見て、男はふっ…と笑うと、またその口を開いた。


「そいつはな、見ての通り生まれつき身体が弱い不完全な人間だったんだよ。だから子を成す事もできない。出来損ないだ。」


「それにそもそも、その女の歳はまだ30にも満たない。…だからどう足掻こうが、お前がこいつの腹から生まれて来るという事実は存在できないのさ。」


 次々と明かされる真実。


 母の反応を見る限り、この男の言葉が嘘だとは思えなかった。


 お母さんの身体が弱いというのは、元々知っていた。けれど年齢の事はまるで知らなかった。…確かに物凄く美人で、若々しい自慢の母ではあったが、それだけの情報で本来の年齢に気がつくわけがない。


「…おかあ…さん…?」


 …だって物心ついた時からこの人の事を、本当の母親だと思って生きてきたんだから。


「クク。…なるほど。これは、中々面白いな。」


 言葉を失う私と、子供のように泣きじゃくる母。


 男はそんな私達を見て、心底楽しそうに笑った。


「お前らは好きに生きるといい。真実を知った今、これまで通りの生活ができるのならな。」


「…それが出来損ないの分際でこの私の顔に泥を塗ったお前達への罰だ。」


 それから男は、その言葉達を吐き捨ててさっさとこの家から出ていった。


 本当に、急な大嵐に襲われたような、そんな感覚。


 急激に静かになった室内。


 私の腕の中で、顔を両手で覆って「ごめんなさい…ごめんなさい…」と、謝罪を口にし続けながら泣く母の声だけが室内を覆いつくす。


 …だから母は、気づかなかった。


 …私が謝罪なんか求めていなかった事を。


 …そんな母を抱きしめながら、私が喉を大きく鳴らしていた事を。

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