四ノ宮楓という女。…2

 男が帰った後、私の腕の中で散々涙を流した母は、落ち着いた後にさっきの話が概ね真実である事を認め、事の詳細を教えてくれた。


 身体の弱い母は、16歳の時に政治活動に利用されて、強制的にあの男と婚約を結ばされたということ。


 その時には既に、あの男と他の女との間で私は生まれていて、母はすぐに赤子だった私と二人暮らしを強制させられたこと。


 母の年齢は29歳で、当時14歳だった私とは15歳差でしかない事。


「お母さんは何も悪くないじゃん!」


 また泣きながら私に頭を下げ始めた母を抱きしめ、それをやめさせる。


 だって、どの話を聞いても母に同情するものばかり。彼女はただの被害者でしかなかった。


 私にこの事実を隠してきたのも、真実を知ったわたしが傷つくかもしれないと思ってしてくれた事だ。恨むことなんて一つもない。


「私にはね、何もなかったの。…本当に、何も…」


…しかし、私のその母を擁護する言葉を否定するように、彼女は首を振って話を続けた。


「この通り体も弱くて、子も成せなくて、だから家族には見放されて…幸せなんてものは子供の頃から既に諦めてた。」


「…そんな時に、あなたは私の元に来たの。」


「最初は、あんな人の子供を育てるなんて、死んでも嫌だと思ってた。…けれど、よくよく考えてみると、これはチャンスだとも思ったの。」


「…あなたを使って、あの男に復讐してやれるんじゃないか…って。」


 …続いた母の言葉に私は、ただただ目を大きく見開いて固まった。


「何も持たない私が、あなたを使ってあの人達に一矢報いてやろうって…」


 ずっとずっと慕ってきた母親のその本音は余りにも信じ難い物で、中学生だった私にはとてもじゃないけれど受け入れられる物ではなかったのだ。


「…そん、な…そんな…そんなの…」


 母を抱きしめていた腕の力が無くなり、ダラんと宙を舞う。


「…でもっ!!」


「…え?」


 しかしその瞬間、母の口から聞いたこともないような大きな声。そして、宙に舞っていた私の手がぎゅっと掴まれた。


 驚いた顔を見れば、大粒の涙を流した母が真剣な表情で私を見つめていた。


「でも…あなたと共にいくつもの時間を過ごしているうちに、そんなバカな考えは消え去ったわ。」


「『お母さん、お母さん』って、可愛い笑顔で一生懸命私に甘えるあなたを、ただ純粋に愛してあげたいと思うようになった。」


「本当にずっと、あなたのことが愛しくて愛しくて仕方なかった。…あなたは、私に幸せをくれたの。初めての幸せを。」


 それから続いた母の言葉は、さっきとは違う意味で私を固まらせる。


「それでね、今度は私に別の感情が生まれてしまったの。」


「このまま本物の親子として…母親として、あなたを独占したいって。」


「…だからあなたに父親の事や、真実を隠していたのは全部自分の為。私があなたを離したくなかったの。」


「…あの人があなたの前に現れた時に、あなたを奪われたくなかったから。」


 母はそこまで言うと、私の腕から手を離して自分の顔をその両手で隠す。


「…でもそれだって、何も知らないあなたを利用したのと同じ。私の幸せの為に、あなたを利用したのと同じなの…」


「私にとってあの人は憎い相手だけど、あなたにとっては血の繋がった大事な家族だったはずなのに…。私はあなたから奪った…」

 

「…ごめんなさい。…最初から最後まで最低な人間で、本当にごめんなさい。」


 そうして母は、とうとう泣き崩れてしまった。罪を告白する罪人のように、背中を丸くして床に這いつくばって。そしてただ、謝罪を口にし続けた。


「…私、難しいことはよく分かんないけどさ。」


 そんな母の背中に優しく手を置いて、私は唇を開く。


 確かに私は母の言葉にはショックは受けたし、一瞬絶望だってした。最早目の前の母親が一体誰なのかさえ分からなくもなった。


 それでも今、目の前で泣いている人を私は、私がずっと愛してきた人なんだと認識した。


 母が何と言おうと、父が何と言おうと。どうでもいい。今目の前の人を愛しいと思うこの私の感情こそが、私の判断材料。


「…お母さんは、私の事を愛してくれてたって事でいい?」


 だからこの問いの答えに、全てを委ねようと思った。それでこの話はおしまいにしようと思った。


「勿論よ…!神に誓って、あなたの事を本当の娘のように愛してきたわ…っ。例えこの先あなたに恨まれようとも、それだけは変わらない…私はずっと、あなたを愛してる…っ」


 そして間髪も入れずに帰ってきたその答えは、十分私を満たしてくれた。


「じゃあ、私はお母さんを許すよ。」


 私は笑みを浮かべて、愛しい存在を再び抱きしめる。


 14の私の腕の中で、子供のように啜り泣く母は可哀想なくらいその身体を震わせていた。


「私が許す。…だから、もう泣かないで?」


 そう言う私だったけれど、母はやっぱりイヤイヤ期の子供みたいに、首を振って更に身体を震わせてしまう。


 母は多分、まさか自分が許してもらえるなんて思っていなかったんだと思う。恨まれる覚悟を持って罪を告白したんだから当然かもしれないけれど。


「…じゃあ代わりに私も告白してもいい?」


 頑なに自分を許そうとしない母。


 それ見て、私に湧いてきた感情は罪悪感だった。


 だからこの瞬間、私も母に倣って、ずっと抱えてきた自分の罪を告白しようと覚悟を決めた。


「…こく、はく?」


 その言葉を聞いて、ようやく顔を上げてくれた母。涙でぐちゃぐちゃにしながらも、その美しい顔は健在である。


 そして、思うのだ。


 ─…あぁ。やっぱり好きだな。


 、と。


「…うん。…あのね。もうちょっと顔あげて?」


 私はそういって更に上げさせた母の頬を両手で包み、自分の顔をゆっくりと近づける。


 ─…そして


「…?………んっ!?……え?」


「…お母さん。私は、お母さんの事が…大好きだよ。…こう言う意味での、好き。…ずっと好きだった。」


 ほんの少しの間だったけれど、母の唇に私の唇を触れさせた。


 それから顔を離せば、当然だけど大きく目を見開いて私を見つめる母と目が合う。


「…そ、そんな」


 絞り出すように声を出して、現実を受け止められない様子の母。


 多分それは、明確な拒絶反応。


 母が私に罪を告白した時も、こんな感じだったのかなって…こんなにも胸が痛かったんだなって…そう実感した。


 それでも私は、大好きな母の為に自分の罪と向き合う事を決意した。だから後悔はしていない。


「…でも、普通はお母さんとこんな事しないってことくらい、子供の私でも分かってた。だからずっと我慢してた。」


 いつから…なんて、正直覚えていない。


 綺麗な髪に触れる度、柔らかな胸に顔を埋める度、それこそ一緒に入浴する度…強く強く感じてしまう情欲。


 それらは明らかに母に対して抱いてはいけない物だった。そして、私はそれをちゃんと理解はしていた。だからずっと我慢してきたし、母が大好きな一人娘を演じてきた。


「血が繋がってないって聞いて、真っ先に思い浮かんだの。…私にももしかしたらチャンスがあるんじゃないかって。」


 だからこの思いも、伝える気なんてなかった。それは本当。


 なのに、本当の母親ではないと聞かされた私は…悲しむ母を前にして、色々な妄想が頭に浮かんで唾を飲み込んでしまったのだ。


 そんなことありえるわけがないのに、母と愛し合える未来を思い描いてしまった。


「だから嘘ついてたのは、お母さんだけじゃないよ…私も、悪い子だった。」


 母は血が繋がっていない事を隠して、私を本当の娘のように愛してくれた。私は恋心を隠して、母親としての彼女を愛していた。


 同じだ。私達は同じだった。


 けれど、根本が同じだからと言って、全てが同じであるとは限らない。


 私の告白は、親子の関係全てを壊してしまうものだったんだから。


「気持ち悪い娘で…ごめんなさい…」


 気づけば、私の方が大粒の涙を流して謝罪を口にしていた。


 母が求めていたのは、"幸せ"だ。私は今の告白で、その"幸せ"とは程遠い存在に成り下がった。気持ち悪い存在になったのだ。


「っ……!!!!」


 しかし、私の泣き顔を見た母はまた目を見開くと、ぎゅっと身体を寄せて私を強く抱きしめた。


「大丈夫っ…!…大丈夫だから、気持ち悪くなんてない…少し驚いちゃったけど…大丈夫。大丈夫よ。」


 それから母は、私と…それから自分自身にも言い聞かせるように、必死に言葉を紡ぐ。


「…おか…ぁさん。」


「ごめんね…私が余計な事たくさん言っちゃったから…ごめん…ごめんなさい。大丈夫。楓は悪くないから。…大丈夫。」


 『大丈夫、大丈夫』と繰り返しながら、私の背中を一生懸命にさすり続ける母。


 私はとにかく母に拒絶されたくなくて、捨てられたくなくて…その華奢な体に必死にしがみついた。


「…あなたが受け入れてくれたから、私はまだ楓のお母さんでいられるの。私は"幸せ"でいられるの…。」


 それから何度か深い呼吸をした母は、ポツリポツリと私の耳元で呟く。


「…だから、私も本当のあなたの事を受け入れてあげる。大丈夫。心配しないで。」


「お母さんは何があっても、あなたの事を愛しているから。」

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