いつだって『おかえりなさい』は聞こえない。

「のり子、もっとこっちに寄りなさい。」


 揺られる電車内。


 満員というほどでも無いけれど、座席は空いてない車両。


 行き先は私の実家。


 ドアの前のスペースに、私と姫乃ちゃん、そしてマリアさんの3人は立っていた。


 そんな中で、キョロキョロと挙動不審に周りを見回していた私を、姫乃ちゃんは抱き寄せた。


 むぎゅっと、私の顔はその柔らかい胸に埋まる。


 思えば、マリアさん以外の他人の目がある中で、姫乃ちゃんがこうして私の事を恋人扱いするのは初めてだ。学校ではいじめ、いじめられの関係だったから。


 私の心臓はありえないほど早く脈打っている。


 だってそれはつまり、姫乃ちゃんは本気で私の事を愛してくれているって事だから。周りの目を気にせず、私のことを愛してくれてる証明だから。


 …それに、今日の姫乃ちゃんは特別だ。


 私の母に会うのだからと、朝から気合を入れて準備した姫乃ちゃん。


 シンプルな黒のスーツとパンツ。それに合わせて長い金髪を後ろで一つに束ねているその姿は、アダルトな雰囲気でいっぱいだった。


 はっきり言って、そこら辺の大人よりも大人でかっこいい。それが全部私の為だというのだから嬉しくなるのも無理もない。


 ちなみに補足をすると、私の服は姫乃ちゃんが用意してくれた。


「…あんたは私のものよ。私だけ見てなさい。」


 そして、そんなかっこいい姫乃ちゃんに囁かれた、独占欲をこれでもかと含んだ言葉。


 きゅぅっと、胸が締め付けられる。こんなの反則だった。


「…でも、姫乃ちゃんの事…見てる人いっぱいいます…」


 しかし、私はそんな姫乃ちゃんに対して、少しだけ抗議する。


 私は別に周りが気になって、視線を右往左往させてたわけじゃない。


 姫乃ちゃんがとびっきりの美人さんなのは、誰が見ても明らかだ。そして、明らか故に視線がたくさん集まる。


「…なに?妬いたの?」


 姫乃ちゃんは、少しだけ驚いたように私の顔を覗く。私はそれに対して、顔を赤くしてコクリと頷いた。


 …図星だった。


 嫉妬したし、独占欲が湧いたし、できれば誰も姫乃ちゃんの事を見てほしくないと思った。そしたら自然と視線が姫乃ちゃんを見る人たちに向かっていたのだ。


「今日の姫乃ちゃん…本当にかっこいいから…」


 私は、ポカンとしている姫乃ちゃんに自分から抱きつく。


「…恋人は、私なんです。」


 そして、私の胸の内を曝け出す。


 こうして自分を表に出せるようになったのは、全部姫乃ちゃんのおかげだ。姫乃ちゃんは、心の底から私に信じさせてくれるから。


 しばらくすると、私を抱く姫乃ちゃんの腕に力が籠る。


 そしてそのまま、頭部にちゅっちゅっと軽い口づけが降ってくる。


 それが私の独占欲に対する姫乃ちゃんの答えなのは、すぐに理解できた。


「そうよ。私の恋人はあんただけ。安心しなさい。目移りなんかしないから。」


 さらに、姫乃ちゃんは言葉でそれをより強固に補強する。心がポカポカと温まる。


 返事をするように、私も姫乃ちゃんの腰に回した腕に力を込める。


「それに、あんただってすっごい見られてるんだから。」


「…え?」


 そうやって姫乃ちゃんに身を預けていると、唐突にそう言われて今度は私の方がポカンとする。


 姫乃ちゃんは、そんな私を置いて続ける。


「だから、あんたの事隠す為に抱き寄せたの。」


「…自分が可愛い事、ちゃんと自覚して。」


 そして言われたその言葉達。


 理解するのに少し時間がかかったが、理解すると同時に、また顔に熱が溜まる。


「あんたは無自覚に人を魅了しちゃうタイプだと思うからちゃんと意識して他人を遠ざけて。…いい?」


「…姫乃ちゃんが言うなら、気をつけます。」


 そんな魅力、自分にあるようには思えない。


 けれど、姫乃ちゃんが嫌だと言うなら徹底しようと思う。


 元々私が好きになってもらいたい相手は姫乃ちゃんだけだ。愛して欲しいのは姫乃ちゃんだけだ。苦じゃない。


 私の顔は、自然と上に向く。


 見上げた先にあるのは、私より頭ひとつ分高い所にある姫乃ちゃんの顔。


 その中にある潤った唇。


 吸い込まれるように、私の顔が寄り…


「一応公共の場なのでそこまでですよ。」


 …マリアさんの声で、我に返った。


 見渡せばやはり満員とはいえないが、そこそこの乗員がいる。


 それに、圧倒的美貌を持つ姫乃ちゃんに集まっている視線達。


 そんな中で、私は何をしようとした?


 あまりの恥ずかしさに、再び姫乃ちゃんの胸に顔を隠す。


「私は別に気にしないんだけど。…まぁ、さすがに車内はまずいわよね。」


 さらに、姫乃ちゃんの方は理性的だった事実が私の羞恥心を煽る。


 前に少し反省したのに、他人の前でこういう風にならないように気をつけようと思ったのに…


「お嬢様も大概でしたけどね。」


「あれくらい恋人同士なら普通よ。」


「ま、そういうことにしておきましょう。」


 二人のどこか楽しそうな会話を聞きながら、私は結局実家の最寄駅まで顔を上げることができなかった。


 それでも、良かった点はある。


 これから"あの"母に会いに行くというのに、私の中にはちっとも恐怖心が無かった事。


 良い意味でも悪い意味でも、今の私の理性を揺さぶるのは姫乃ちゃんだけだった。



「ふふ。のり子顔真っ赤。」


 少し早歩きで姫乃ちゃんに隠れながら降りた最寄駅。


 改札口を出た所で、姫乃ちゃんは私の顔を覗き見てクスクスと笑う。


 いまだに私の顔から熱は引かない。それほどまでにさっきの自分の行動に恥ずかしさを覚えたということだ。


「私はいつでもいいのよ。場所だって、別に気にしないから。」


 そんな私に、姫乃ちゃんは優しく微笑んでそういう。


「…それに、外でも周りが見えない程私に夢中になってくれたのは…すごく嬉しかったわ。」


 それから、一転してどこか恥ずかしそうに言う姫乃ちゃんに、私の目は見開く。


 それはまさに、自分が姫乃ちゃんに抱いた感情と同じものだったから。


「…わ、私も…っ…他の人がいる中で私の事を見てくれたのは…すごく嬉しかったです…」


 私は隣を歩く姫乃ちゃんの腕に抱きつきながら、しっかりと思いを告げる。


「言ったでしょ。私はあんたしか見てない。」


 それに対して、姫乃ちゃんは力強く答えてくれる。その迷いのない声音は私を酷く安心させ、恋心を更に強くする。


 気付けば羞恥心は消え去り、ただただ幸せな気持ちでいっぱいになっていた。



「さて、顔色も元に戻ったしあんたの家、案内してくれる?」


 姫乃ちゃんの言う通り、一連のやりとりで私の羞恥心がなくなり、顔の熱もどこかにいった今。


 もうこの駅に居る理由はないし、早急に要を済ませてしまう為にもそろそろ歩き出した方がいいだろう。


「あ、はい。…ここから20分くらい歩く事になってしまいますが…すみません。」


 私の家は、はっきり言って貧乏である。


 よって、最寄が遠くて不便な場所にある。


 いつも高級車で登下校をしている姫乃ちゃんを20分も歩かせるのは、申し訳ないと思う。


「いいのよそんなの。…ね?マリア」


「ええ。何も問題ありませんよ。」


 しかし姫乃ちゃんはなんて事ないように答え、マリアさんもそれに同調して笑顔で答えてくれる。


 二人は、私の家がボロボロのアパートであることも事前に伝えているから知っている。


 勿論アパートには駐車場は無く、近場にすら有料の駐車場が無い。だからこうしてわざわざ電車と徒歩で来ているのだ。


 それでも、私は貧乏な事を恥ずかしいとは思わない。


 だって、お母さんが必死に稼いだお金で成り立った生活だから。恥ずかしいなんて思えるはずもない。


 そして、二人はそんな私の思いを優しく受け止めてくれた。


 文句も言わず、こうしてついてきてくれた。


 ただただ二人には感謝しかない。


「ありがとうございます。…では、案内しますね。」


 私はそんな二人に頭を下げて、足を動かした。



「へぇ。…確かにこれは結構年季が入ってるわね。」


 かなり言葉を選んでくれた姫乃ちゃん。その目線の先には、本当にボロボロのアパートがぽつんと寂しく佇んでいた。


 そう、ここが私の実家…といっても借屋だが…母がいる実家である。


「本当に汚い所ですけど…大丈夫ですか?」


「なによ、別に気にしないって言ったでしょ。」

 

 本物のボロ屋を見て気持ちが変わってしまう可能性も考えたが、要らぬ心配だったようだ。姫乃ちゃんは本当に気にしてない様子。


 私はそれを認めて、建物の二階を指差す。


「…では、あの204号室が私の部屋なので上がりましょう。」


 私の言葉に頷いて、姫乃ちゃんとマリアさんは後ろについてくる。


 踏み慣れた階段に足を置くと、いよいよ母と久しぶりに向き合う時が来たのだという実感がやってくる。


 そして歩みを進めて、204号室の前に立つ。


 呼び鈴に向けて立てた人差し指が震える。


 ここにきて、少しだけ緊張感が私の心を支配し出した。


 母は平日の疲れを癒す為に、休日は遅くまで眠っている。


 そして今の13時過ぎと言う時間であれば、ちょうど起きてくるくらいの時間。


 つまり、この部屋の中に母は確実に居るはずなのだ。


「…っ」


 そんなふうにチャイムを鳴らす指が迷っていると、背中に軽い衝撃を感じて息を呑む。


 首をゆっくりと回して、斜め後ろを見ればそこには微笑む姫乃ちゃんがいた。


「大丈夫。怖がらないで。…何があっても私があんたのそばにいるから。」


「…姫乃ちゃん」


 そしてかけられた言葉に、私の震えは止まる。


 ─…そうだ。一人だったら向き合えなかったけど、姫乃ちゃんが居てくれるからこうしてここまで来ることが出来たんだ。


 心強い後押しに、とうとう呼び鈴が鳴り響いた。


 ………


 …しかし、反応がない。


 少しだけ間を置いて、もう一度ボタンを押す。


 ………


「…留守?」


 それでも反応が返ってこない事で、姫乃ちゃんがそう呟く。


「…もしかしたら、まだ寝てるのかもしれませんね。」


 あくまで、休日は13時頃に起きてくるというのは平均的な物。


 今日はたまたま少し長く寝ているだけかもしれない。


 私はとりあえず手さげから、キーホルダーを取り出す。


「起こすのは大丈夫なの?」


「はい。仮に怒られたとしても、私には姫乃ちゃんがいてくれるので大丈夫です。」


「ええ。そこは安心して。」


 仮に起こして不機嫌になられても、私には姫乃ちゃんがいて、マリアさんもいる。


 そんな心強い味方がいるから、鍵穴に差し込んだ鍵は簡単に回せた。


「…あれ?」


 しかし、ものすごい違和感を覚えて首を傾げる。


「どうしたの?」


「…いえ、開いてるみたいで」


 鍵を開ける際にあるはずの手応えが、まるでなかったのだ。


「閉め忘れたのかしら?」


 姫乃ちゃんはそういうが、中々違和感がある。


 母が戸締りに関してはきっちりする人だと言うのは自分がよくわかっていたから。


「…ただいま。」


 そんな違和感を抱きながら、軽いドアを開ける。


 酷く狭い玄関と、短い廊下。


 その先にあるドアが、この家にある唯一の部屋につながっている。


「…お母さん?…いる?」


 私は靴を脱いで、廊下を進み、その最後のドアを開く。

 

「…ぅっ…なに、この匂い…」


 すると、まず最初に強烈な匂いが鼻腔を刺激されて思わず口元に手を置く。


 よく知る部屋の中で、まるで嗅ぎ慣れない匂い達。


「四ノ宮様、失礼しますね」


 そんな状況で、どこか真剣な表情のマリアさんが何かを察したのか私を差し置いて部屋に上がる。


「…これは、アルコールの匂い」


 確かに、言われてみればこれはお酒の匂いだ。


 でも、お母さんがお酒を飲む姿は見たことがない。


 それにお酒を飲んだとして、ここまで匂いが充満するのだろうか。


 そう思いながら部屋を見渡していると、恐らく私とマリアさんは同時にその姿を認めた。


「…っ!」


「お母さんっ!?」


 背の低い小さなテーブルの上に、たくさんの空き缶。


 そして、その付近の床にうつ伏せに倒れている人影。


 …どこからどうみても、私の母だった。


「ダメです四ノ宮様!」


 慌てて駆け寄ろうとすると、マリアさんが私の体を静止する。


 訳がわからなかった。だって、お母さんがそこに倒れてるのに。


 頭の中が真っ白になり、視線だけが倒れているお母さんに集中して、足の力が抜けた私はその場に座り込んでしまう。


「…とにかく状況を…それからお嬢様!救急車を!」


 マリアさんは、恐らく最善の指示をしてその場をどうにかしようとしてくれている。


「え、あ…うんっ!」


 姫乃ちゃんも、只事ではないと思ったのか普段からは考えられないほどテンパりながらもスマホを取り出して行動をする。


 そんな中で私はお母さんを見つめて、何もできなかった。


 ただ、最悪の事だけが頭をよぎって、どうすることもできなかった。


「…大丈夫。脈はある…アルコールが問題なわけじゃなさそう…?…呼吸も浅いし、明らかに容態が良くない。」


 そんな中でマリアさんはお母さんを大きく動かさないように、慎重に触れて状況を確認する。


「とにかく動かさないように。専門の方に委ねましょう。」


 マリアさんの真剣な声が、部屋にこだました。

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