第8話 陽炎④

 けれど、彼女は少し微笑んだだけで、それには応えず、

「あの時、私、嬉しかったのよ」

 少女は私の顔を覗き込むように言った。

 何のことだ?

 遠い記憶を手繰り寄せると、私は唯一彼女と交わした会話を思い出した。

 あれは廊下で彼女とぶつかった時だ。

 いや正確には、彼女は急いでいたらしく前を見ていなかった。故に私にぶつかりそうになったが、体が触れることはなかった。

その代わりに、教師に運ぶように頼まれていたのだろうか、彼女が胸に抱えていた数十枚のプリント用紙が、木の葉が舞い散るように廊下中に広がった。

 彼女も慌てていたが、私はそれ以上に慌て、反射的に一枚一枚丁寧に拾い集めた。

 生徒が何も言わず行き交う中、それは私と彼女の世界だった。

 私は用紙を全て回収すると彼女に手渡した。当然、まともに顔を見ることなんてできない。

 せっかく間近に彼女がいるのに、私の目は用紙の束と廊下の向こうの窓しか見ていなかった。

「ごめんなさい」彼女は小さく言った後、「ありがとう」と続けて言った。

その瞬間だった。あの日、初めて私は彼女の笑顔を間近に見た。

 そうだった。私が彼女と交わした言葉は「ごめんなさい」だけではなく「ありがとう」という言葉もあった。

「あの日の事を憶えていてくれたのか?」

 私は見ず知らずの少女に言った。

「もちろん、憶えているわよ」

 少女・・いや、初恋の彼女は微笑んだ。

 おかしな会話だが、私には少女が初恋の人に思えて仕方ない。

 けれど、あの日が一瞬だったように、現在も一瞬だ。

 少女は会話の終わりを告げるように、

「自分だけが『終わり』だなんて思っちゃダメよ」と言った。

 それは、私が夏の終わりが人生の終わりと思ったことを言っているのか。

「小原くんの人生はまだまだこれからなんだから」

 少女はそう言った後、

 寂し気な表情でこう言った。

「もう終わってしまった人だっていることも忘れないでね」

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