第6話 陽炎②

 プールサイドには誰もいないし、泳いでいる人もいない。

 誰にも聞かれていない言葉を発すると、心が晴れ渡っていくような気がした。

「君の事を忘れたことはなかったけれど、

 君は憧れの人・・遠い存在だった」


 彼女は成績もトップで、私は後ろから数えた方が早いくらいの成績だった。もちろん、彼女のような運動神経もないし、楽器も弾けない。

 そんな私が彼女に恋心を抱くこと自体が恐れ多いくらいに思えた。

 彼女には彼女に相応しい人がいる。

 そして、そんな人に巡り合い、幸せに暮らしていることだろう。


 そう思った時、不意に静寂が破られた。

 静寂を大きな水音が切り裂いたのだ。一体何が?

 私は水面を見た。当然、誰もいない。

 誰もいないが、プールの水面の空気がゆらゆらと揺らめいている。

 視界が歪んで見える。

 ・・これは、陽炎だ。

 密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折して起こる現象だ。太陽の光が強いとこうなるのだろう。水面から空気が立ち上っているようだ。


 そして、次の瞬間、人の気配を感じた私は、その方へ目を向けた。

 それはプールの飛び込み台だ。コースの真ん中の台だ。

 そこには水着の少女が立っていた。

 それも体育の授業で着る水着だ。あの時と同じだ。少女の姿は、15歳の初恋の彼女と見事に重なった。違う所を敢えて言うなら、少女がスイムキャップを被っていない点だ。


 少女の手は真っすぐに青空に向けられている。

 今から飛び込むという合図だ。気持ちのいいほど綺麗な姿勢だ。

 その姿に見惚れる間もなく、少女は台を蹴りプールに飛び込んだ。

 あっと言う間に私の前を通り過ぎていくその姿は、15歳の時の私が見た彼女の姿そのものだった。

 少女は気持ち良さそうに25メートルの端まで泳ぎ切ると、顔を上げ、満足そうに青空を仰ぎ見た。

 そして、髪をかき上げながら、ゆっくりと平泳ぎでこちらの端まで流れるように来て、はしごを伝った。

 プールサイドに上がった少女は、私の姿を認めると、素足でひたひたと歩いてきた。

 陽に焼けたコンクリの上だ。かなり熱いはずだが、まるで絨毯の上でも歩くようにやって来た。近所の子だろうか?

 少女は私と顔を合わせると後ろ手に組み、

「そこで何をしているの?」とデッキチェアの私に訊いた。訝し気に見るのではなく、私と話したい。そんな顔だった。

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