第2話
それは瞬く間に膨張を増し、掌くらいの大きさで2~3㎝くらいの高さにまで大きくなってきた。このまま大きくなって残ってしまえば、通行車両の走行に支障を来してしまう。今のうちに転圧し直しておかないと後から補修すればまた時間と金がかかる。どうにか膨らみが収まらないものかと私は皮の手袋越しに、右手でそのこぶを上から軽く押してみた。その瞬間に私の右手が手首までずぼっとそのこぶの中にめり込んでしまった。
—これはまずい、作業員に余計な仕事を増やしてしまった。
私は右腕をこぶから引き抜こうとしたがなかなか抜けない。
—一体どうしたんだ。
渾身の力を込めて引き抜こうとしたがびくともしない。困り果てた私は大声で作業員を呼ぼうとした、その時だった。右腕がずるずるとアスファルトの中に引きずり込まれ出した。
「何だ、これはぁ!」
右腕がどんどん引きずり込まれる。さっきまで固かったアスファルトが、引きずり込まれる私の右腕の周りだけ液状化している。右腕に焼けるような熱さを感じるが、底を突くような感覚がない。
私は左手の掌でアスファルトを押し下げるようにして、全力で右腕を引き抜こうとしたが、まるで歯が立たない。とうとう右肩まで飲み込まれ、アスファルトの表面が私の顔のすぐ近くまで迫った。頬が焼かれるように熱い。アスファルトの液状化がどんどん範囲を広げ、踏ん張っていた両足までもが、アスファルトに引きずり込まれ出した。まるで底なし沼のようだ。
—何が起きているんだ。このままだと身体ごと飲み込まれる。
「だれかっ、助けてくれっ!」
私は大声で叫んだが、重機の音にかき消されて作業員たちの耳に届かない。部下たちは必至で写真を撮っていて、私のことなど気が付く素振りもない。
—まずい、このままでは死ぬ。
うつむいた状態のままアスファルトに取り込まれてしまえば呼吸ができなくなる。私は呼吸を確保するために身体をひねって仰向けの体勢になった。しかし身体はなおも沈み続ける。左腕を下向きに曲げて底らしき感触を探ってみようとしたが、液状化している割にアスファルトが固くて、アスファルトの中では身体を自由に動かせられない。私の胴体がアスファルトの中に沈み始めた。首を目いっぱい上に曲げて口と鼻だけでも外に出そうとしたが、私の身体は成す術もなくアスファルトの中に取り込まれてしまった。
このまま永遠に私の身体が沈んでいくのかと思ったが、私の目だけがアスファルトの表面に残った状態で止まった。身体が底を突いたと言うより、液状化していたアスファルトが元の固体に戻ったようだ。身体の感覚は確かにある。しかしアスファルトが固すぎて動かすことができない。視覚ははっきりしているが、耳はアスファルトに埋もれていてかなり音は聞き辛い。臭覚はあるが鼻がどうなっているか全くわからない。
私の身体は厚さ数センチメートルの植物人間になってしまったようだ。それに熱い。身体が溶けそうになるくらいの猛烈な熱さだ。
「だれかっ、助けてくれっ」
私はそう叫ぼうとしたが、口が全く動かない。現場にいる作業員たちも、少し離れた場所で写真を撮っている部下たちも、私が消えたことにだれも気が付いていない。右腕に力を込めてみたがピクリとも動かない。腕だけではなく、顔も足も胴体も厚さと言うものを感じない。自分の目で確かめることはできないが、身体がペラペラの紙みたいになってしまったようだ。厚みのない私の身体を固いアスファルトが取り囲んでしまっていて、身体のどの部位も1㎜すら動かすことができない。
どうすればここから脱出できるのか、私は必死で考えた。考えがまとまらないうちに、聞き辛くなった私の耳をつんざくような轟音が鳴り響き始めた。その轟音は私を取り込んだアスファルトが大きく振動させながらゆっくりと近づいて来る。私の視界には何も捉えられないが、過去に同じような現場を見学した経験から、それが何かがすぐわかった。マカダムローターだ。マカダムローラーはアスファルトを転圧するための建設機械で、前後輪が巨大な鉄製の車輪になっていて重量がある。
「来るなぁ―、こっちへ来るなぁー」
私は開かない口を少しでもこじ開けて叫んだが、マカダムローラーはすぐ傍まで近付いてきたかと思うと、私の足と思われる部分の上を踏みつけながら通過して行った。
「ぎゃぁぁぁぁぁ―」
骨が砕かれるような痛みに私は声をあげようとしたが、思うように声が出せない。
今度は数人の作業員が近づいてきた。休憩を取ろうとしているのだろうか、何やら話しながら歩いてくる。その中に一人が。私の顔と思われる部分を底の分厚い安全靴で踏みつけてきた。
「やめろっ、どかんか」
やはり声が出せない。作業員たちは水分補給のため、ペットボトルの水を飲みながら話し込んでしまい、私の顔の上に足を置いたまま動こうとしない。
—なぜこんな品のないやつらに顔を踏みつけられなければならんのだ。
耐え難い屈辱だった。
どうやればここから抜け出すことができのか。きれいに転圧された舗装をだれかに剥ぎ取ってもらわない限り、私はここから抜け出すことができなのか。しかしそれを伝える術がない。私は動かない口でうめき声をあげ続けた。その声が作業員たちに届く可能性は万に一つもないが、だれかに助けてもらうにはそれ以外に手立てがない。しかしその声も枯れ始めてきた。
—もうここから脱出できないのか。
そう思った刹那、私の部下たちが近付いてくる姿が見えた。辺りをキョロキョロと見ている。どうやら私がいなくなったことに気が付いたようだ。私はもう一度うめき声をあげた。何度も何度も声をあげたが、部下の耳には届かない。やがて部下たちは私の視界から消えて行った。
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