第2話 解放と孤独

 彼女女の部屋を出て、とぼとぼと家路を歩く。


 さっきまで浮かれての部屋を目指して急いでいた自分の姿は遠い記憶の彼方……今思うと本当にバカみたいだ。自分だけの女だと勝手に勘違いして、のぼせ上がって────

 目に映る景色が、数分前と全く違って見える。

 色を失った、というのではない。全てが現実感という手触りを無くしたように感じる。

 一方では、これこそが現実なのだと、ひどく生々しい波のような余韻が時折襲ってくる感覚もあった。部屋を出たときは妙に優しさを感じた夜風も、今では僕の頬をからかって撫でていくようで少し気持ちが悪かった。


 道を歩いて、行きつけのコンビニの前に差し掛かると、男女の二人連れが楽しそうに出てくる。先ほどまで祝福の対象でさえあったこんなカップルも、今は憎悪と嫉妬の対象でしかない。八つ当たりで怒鳴り付けてやりたいような衝動が沸き起こって、必死に自分を宥めた。


 立ち止まり、コンビニの店内に目を遣る……こんなときにアルコールを摂取するのはあまり良いことじゃないかもしれないが、何かで自分を慰めねばこの夜を耐えられそうになかった。僕は深い考えもなく、ふらふらとコンビニのドアを開け中に入った。

 雑誌コーナーの前を抜けようとすると、反対側の棚の前でしゃがんで商品を選んでいる男がいた。ちらりと目を向けると、男が選んでいたのは避妊具コンドームだった。


 いい夢見ろよ……

 そんな皮肉めいた言葉が出かかって、あわてて押し止めた。


 飲料の冷蔵庫の前で立ち止まり、アルコール飲料を物色する。正直、あまり酒は強い方じゃないのだけれど、今夜だけは酔いたいと思った。カッコつけてウイスキーなんかを煽るつもりもない、安酒で充分だった。

 柑橘系の缶チューハイを4本、適当に選んで取り出す。だが、手で持ちきれずに、冷蔵庫を閉めたはずみで一本落としてしまった。……角が潰れて転がった缶が自分みたいで、妙な親近感と悲しさを誘う。

 少し潰れた缶を拾い上げ、両手で抱えて辺りを見回す。小さな買い物かごがあったので、持っていた商品をそれに納めてかごを手に取る。ついでに、おつまみになるものも何か買っていこうと思い、お菓子コーナーに移動する。

 いつもの定番チョイスで柿の種を手に取ったのだが、


「ガキの種……」


 ……変な発想をしてしまった。


 だが、一旦湧いた雑念は纏わりついて離れなかった。なんだか、駄菓子にまでバカにされているような気がして、柿の種を棚に戻す。


 ポテチでもいいのだが、もっと歯応えのあるやつが食べたい気がした。少し戻って、お酒のおつまみコーナーにあるビーフジャーキーとあたりめを手に取った。普段は高くて買わない物だけれど、今夜くらいはいいだろう。……どうせ、一緒に食事に行ったりプレゼントを見繕ったりする必要も無くなったのだ。降って湧いた泡銭だと思って、深くは考えなかった。


 レジ前に並ぶと、ホットスナックの棚が目に入る。僕はポークフランクが好きだったのだが、今となっては嫌な記憶となって再燃する。……二人で食べる時、彼女はそれを口に咥えてじゅぼじゅぼするという悪ふざけが定番だった────


「……クソッ!」


 あ………


 ついに、心の声が漏れ出てしまった。

 レジのバイトらしき女の子が、視界の隅でびくりとしたのが分かった。

 僕は慌てて、

「す、すみません……これお願いします」

 そう言って頭を下げ、商品をレジ前に置いた。


 異常行動を見られて、恥ずかしいと同時に申し訳なさと情けなさが浮かんでくる。

 だがそのレジの子は意外にも、怒るでも苛立つでも、不審がるでも無く普通に会計を終えお釣りを手渡してきた。事もあろうに、心配そうな表情を浮かべて……


 両手を添えてそっと掌に置かれた、小銭のお釣り。


 ほんの少し触れたその柔らかく滑らかな指先の感触に心が粟立ち、苛立ちと共に性欲に溺れていたときの衝動が同時に芽生えて、僕の心を揺さぶった。そこからほんの少し遅れて押し寄せてきた寂しさの波にまた心が波立ち、思わず先ほどの感触を反芻して……眼の前の女性に縋り付きたくなるような感情までも起こり────再びおかしなことをしでかす前に、僕は受け取った小銭をレシートごとポケットに押し込んで、頭を下げてレジ前を立ち去った。


 と……ポケットに差し入れた指先に、何かが当たる。


 ポケットの中には、何か四角いものが入っていた。

 僕は、それを取り出してみる。


 ……それは、先程あの女の部屋から出てくるときに掴んだままだったのであろう、中に三つほど残ったままのコンドームの箱だった。どうやら、あの時そのまま持ってきてしまったようだ。

 最後まで貧乏臭いやつだと思われたかもしれないが、もう……それもどうでもいい気がした。


 今までは──、こんな箱でさえも目に映れば否応無く心が踊り、女の裸体を連想して浮かれていた。


 ポークフランクもペットボトルも……サンダルも麦わら帽子も、石鹸も鉄道の切符でさえも……身の回りのあらゆるものが楽しい記憶に紐付けされていた。

 それが今は、全てが汚いもののように思えてしまう。


 ほんの一手。

 たったひとマス取られたせいで、一気に真っ黒に塗り変えられてしまったオセロの盤面のようだった。これまで打ってきたあらゆる布石が、全て裏目となり台無しになっていく────


 僕は、その用済みとなったコンドームを箱ごと握り潰して、入口脇の燃えるごみのゴミ箱に捨てた。


 ………………………………


 ドアを押し開きコンビニを出ると、変わらない夜風が吹いていた。

 僕は、買ったばかりの缶を選びもせずに一本取り出し、タブを開ける。そして、その場で一気に煽った。弱い炭酸で少し喉が苦しかったが、構わず全部飲み干す。急激に流し込まれた炭酸とアルコールで空の胃がキリリと痛んだが、寧ろ今はその痛みがありがたかった。

 心が痛むより、身体の苦痛の方が万倍もマシに思えたのだ。


 ほんの少し霞がかった頭で、僕は家路についた。

 少し足もふらついていたが……構うもんか。

 車にでも刎ねられた方が、いっそスッキリするというものだ。

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