第31話 梨の王 模様
「兄貴!」
「だっはっは!」
カチッ、カチッ、カチッ。
「兄貴!」
カチッ、カチッ、カチッ。
「兄…」
バンッ!カチッ。
「辞めろよバカ親父、この間からなんべん聞いてんだよ。」
「いやぁよぉ、立派になったなぁって感動してたんじゃねぇか。
やるねぇ、中々出来ねぇよ?
兄弟の為に自分が突っ込むなんてことはさぁ。」
「感動だぁ?
嘘こけ、大笑いしてたじゃねぇか。
仕方ねぇだろ、身体が勝手に動いちまったんだからよ。
それで?
今日はなんの用事だよ。
これを聞かせて笑いたかったって言ったら、親父でもぶっ飛ばすからな。
な、許せよノア。」
「はい。」
「ハイじゃねぇんだよ馬鹿野郎。
何のためのボディガードだってんだ。
まぁ、アプ。
そんな怒んなよ、感心したのは本当だってんだよ。
いや、これが関係ない訳ではないんだけどよ、ほら、持ってんだろ?
先に聴かせてくれよ、な?
ギルバートに聞いてもよ、然るべき時に流すからラジオで聴けって内緒にすんだよ〜。
ひでぇよなぁ?
オイラだって金出してるのに、録音の日を内緒にしてやがったんだからよぉ。」
「出来るかよ。
自慢して周るじゃねぇか。
前もそれで誰からも公演の日時教えて貰えなくなったんだからよ、学べよな。」
「しねぇよぉ〜。
ジェマさんってば口が固いのねってよく言われるんだから。」
「それだよそれ!
夜の店に行ったみたいに公開録音に行ってよって言われるのが困るんだよ。
親父は自慢したいことが出来たら我慢できねーだろうが。」
「そんなことないよぉ。
な、いっぺんだけでいいからさ、良いじゃねぇか減るもんじゃないし。」
「大きな声で言うなよ…。
外で誰か聞いてたら誤解されるだろうが。
今回は仕掛けが色々あってネタバレされちゃあ台無しなんだよ。
言うだろうが、そういうの…。」
「けっ!
冷てぇ奴だなぁ!
ケツの穴が小さいってんだ馬鹿野郎!」
「ケツの穴とか言うなよ、さっきのが聞こえてた奴なら変な誤解されるだろうが!」
「うるせぇうるせぇ!
帰れ帰れ!
自慢しに来やがってよ!」
「親父が呼んだんじゃねぇかよ。
あ、これ、ギルバート様からラジオの受信機預かってるから、キチンとお礼言っておいてくれよ。」
「…なんだよ…。
悪かったな、帰れなんて言ってよ。
それで放送はいつなんだい?」
「さぁ、直接聞きなよ。
じゃあ、俺はそろそろ失礼しますね。」
ピアードがドアを開けて外へ出ると、ギルが待っていた。
この次の仕事があるのでその打ち合わせを歩きがてらしようと思って待っていたのだが、他の懸念が沸いて来たので、なかなかその話を出来ないでいた。
「なんだよ、黙ってチラチラこっちみて。」
「あ、いや、その、親父と兄貴が結婚とかしたら、兄貴も親父って呼ぶべきなんすかね…?
いや!偏見とかはないんすけど!」
「…なんだ、なんでそうなった…?」
「…いや…中から減るもんじゃねぇしとかケツの穴がとか…聞こえて来たから…。」
「ほらぁ!」
◆
この人は全く。
いつもの日にちにレッスンの為の訪問をしたが、いつも朗らかで優しげな家宰の爺さんが疲れている様子だ。
流石にこの家でこのベテランをしおしおにさせるのは一人しかいないだろう。
「あら、お待ちしておりました、センセ。」
全くこの人は、である。
チラッと団長を見るが、不自然な程目線が合わない。
シェリルを見ると、あぁ、これが苦笑いというのかと、苦笑いを知らない人に向けてのお手本にしたいような表情をしている。
これは俺に投げられたな。
「何をやっているんですか、ネージュ様。
大体、貴女にレッスンすることなんてないですよ?
トッププロでしょう、貴女。」
手遊びの様にポロポロと弾くピアノも澱みない。
実際腕前はとんでもないのだ。
彼女は、小さな音を小さく弾ける。
口にするのは簡単だが、演奏中にそうするのはとても難しい。
相手には届くが囁く様なピアノ。
そんな艶やかな演奏をする人だ。
「あらあら、過大な評価をありがとう。
それでも必要なものもあるんですのよ。
ほら、こういう楽譜とか、どう弾いたら良いのかわからないのですもの。」
視界の外で団長がギョッとした顔をしたのが分かる。
おいおい、親の前でこんなもん出すなよ…。
「歌劇、いちじくのバニラ漬け…。」
「知らない話です。
どういう話なのですか?」
しまった、口に出ていたか…シェリルが興味を持ってしまった…。
祈る様な気持ちで団長を見るが、明らかに分かる狸寝入りをしている。
今日一言も発してないぞこの人。
「お姉様、どんな話なのですか?」
「私もはっきりと自分の中に確立していないから、聞きに来たのよ。
センセ、教えて下さる?」
…何がしたいんだこの女…!
せめて団長を退出させてくれよ。
何が悲しくて親の前で年頃の娘にエロ歌劇の解説をしなくちゃいけないんだ…。
そうだ。
なるべく学術的に話そう。
恥じらいを捨てて、授業として。
リリアンを思い出せ。
アイツはこんな話でも真顔のままだったんだから。
◆
「名作といえば名作ですねぇ。
始まりは男子禁制の修道院に、若い男の庭働きが勤め始めたところから物語は始まります。
もちろん建物の中には入る許可は下りて居ませんし、修道女と言葉を交わすことも、同じ空間に居ることも禁止されて居ます。
軽い大工仕事もあるので、要望書は男が住み込みで働いている小屋の郵便受けに届く仕組みになって居ました。
庭師は真面目な青年で、言いつけを守って決して近づかない様にして居たのですが、ある日壁に穴が空いたから直して欲しいとの要望書が投函されます。
道具を用意して向かうと、確かに腕が丁度入るくらいの穴が空いていました。
裏に木を当てて挟み込む様に修理をしたいと考えましたが、果たして穴に手を入れることは言いつけを破ることになるのかが分からず、困り果てていると、穴の奥から声が聞こえてきさくるではありませんか。
『私達がお願いしたのですから、手を差し入れて穴を直すくらいは、神様が許してくださいます。』
それはその院で一番偉い修道長の女性の声で、彼女が言うならと、声を返すこともせずに、彼は腕を中に差し入れていきます。
すると中で何かに触れて、びっくりした男が腕を引き抜くと、ぬらりと指が濡れて居ました。
なにか傷つけてしまったのかと思った男は、つい声を出してしまいます。
『そちらの先には、なにかありますか?』
すると中から
『熟れたいちじくがございます』
と。」
「真面目に聞いていて損した。
エロ小説じゃねぇか!」
「そうですよ?
それでも実験的な手法がふんだんに取り入れられていましてね、例えば、舞台装置は穴の空いた壁のみだったり、声は聞こえるけれど、女の人が出て来なかったりします。
そうする事によって、声だけで人は想像する訳ですね、各々の理想の女性を。
続きを聞きますか?」
「…聞くけども。」
「ね?
強い欲望の一つなんですから、芸術には必要なものなんですよ。」
◆
「『では、壁の厚みを測るために、物差しを入れてもよろしいですか?』
庭師がそう尋ねると、中から、
『そのような固いものを入れるといちじくに傷が付いてしまいます」
と返答がある。
『では、なにを差し入れるのは可能なのですか。
直す為には、測る必要があります。」
『そうですね。
もっと柔らかい物なら、差し入れて構いません。』
不思議に思った男は、行かないと思いつつも、壁の穴を覗き込みます。
するとそこには…。
おっと、時間ですね。
今日のレッスンはここまでにしましょう、さようなら。
いやぁ、残念だ、途中で終わるなんて!」
「おや?
終わったかい?
そうだ!
そういえば、アプリードリヒに仕事の話があったんだった!
こっちは来てくれ!
早く!
早く執務室へ行こう!」
そう言うと、先生とお父様は部屋から出て行ってしまいました。
いつもなら、もっとキリの良いところまで進めてくれるのに。
一体覗くと何があったのか。
「お姉様…中には何があったのですか?」
「言ってたじゃない、いちじくがあるって。」
「何故そんなところに果物を置くのでしょうか…。」
「さあ…穴が空いていて、風通しがいいから干していたんじゃないの。」
なるほど!
それなら納得できますね。
「そういえば、買って来ておいたのよ、いちじく。
後でセンセとお父様に剥いて差し上げたら?
私はもう行くから。
会えてよかったわ、シェリル。
またね。」
台所へ行き、料理長に剥いてもらったものを執務室へ持って行こうとドアの前へ行き、ノックをしようとすると、中から声が聞こえて来た。
「危なかったねぇ、言えないよ。
娘の前で、いちじくは果物じゃなくて、あの、女性の比喩だなんて。」
「えぇ…文学を説明するようになるべく他意を含ませず話しましたが、流石にあの場面は口に出せませんでしたよ。
あ!
団長寝たふりしたでしょ!
見捨てる事ないじゃないですか!」
「許してくれよぉ。
僕だってどうにかしてあげたい気持ちはあったけれど、どんな顔して娘に言えばいいんだよぉ。」
お父様達は、中にあったのが良からぬ物だと勘違いしているのかしら。
お姉様がいちじくと教えてくれなければ、私も同じ様に恥ずかしい事になっていたかもしれませんね。
いつも正しい助言をくれるお姉様には、頭が上がりません。
いつか、お二人の勘違いも、お姉様が正して下さるでしょう。
コンコンとノックをして入室すると、こっちを見たまま固まっているお二人の間に、いちじくの皿をお出しすると、二人とも何か言いたい様でしたが何も言いません。
「どうぞ、物語の様に干さずにお食べ下さい。
あ、お姉様からの伝言です。
あまり乾かしすぎると、味も落ちてしまうので、瑞々しい内に召し上がれ、との事でした。
それでは、お父様、先生、ごきげんよう。」
◆
意味深な相手が妹に運ばせた意味深な食べ物。
二人ともちょっと気軽につまむ気持ちにはなれなかった。
「…どうしよう。
どうしよう!
分からないよ、僕は。
やっぱり男親ってダメなのかなぁ。
全てに意味がある気がして、吐き気がするよぉ。」
「いや、俺だって同じですよ。
…シェリル嬢が出された物なら何も考えず頂きましたが、失礼ながらネージュ様は…。」
「うん。
分かってる。
口に出さないでくれ。
…とりあえず食べようか。
皿に乗っているのを見ているだけで気が滅入ってくる。」
「ええ…頂きます。」
久しぶりに食べた上質ないちじくだったが、なにの味もしなかった。
砂を噛んでいるようだったが、それなら砂を食べた方がマシかもしれないと思った。
「しかし、名曲なんですよねぇ、いちじくのミルク漬けの劇中曲は…。」
「そうなんだよねぇ…。
どこの馬鹿がこんな大御所に話を持って行ったんだか…。
ゴーシュ・ランプデールもこんな作品で生涯最高傑作を披露しなくてもいいのに。」
「ねぇ…。」
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