第4話 ヴァロラブリーデリ 青春期2

「だから、こ、この2枚はセットな気がしていて。」


猫と漁師の話を宿屋の夫婦は静かに頷いてくれている。

お茶はもうとっくにぬるくなっているが、気にする者はいない。


「…おれぁよ、そんなに絵に興味ある方じゃあないから、その絵は何を見て、何を感じて描かれたかなんて気にして観たことなんてなかったんだがが…なんか良いもんだな。


作者本人に話を聞けるのも贅沢なもんだ。

あれか、これが教養って奴か。」


「休みの日に展覧会にでも行くのも良いかもしれないねぇ。


…所で、その絵はその漁師の所に持って行くのかい?」


ヴァロは少し考えると首を振った。

あの人はもう、優しさも強さも慈しむ気持ちも持ち合わせているので必要ないだろう。


「僕は、これは、やっぱり、人を信じられない気持ちが残っている様な人に見て欲しいと思う。


お兄さんも猫も、僕の手助けなんて必要ない凄い人達だと思う、から。


だから、なんというか、あの時僕が、こう思って、それが誰かが必要として、僕と同じことが起これば、そ、それが素敵だと、そう、お、思う。」


「アンタがそう思うならそれが正解なんだろうね。

いい絵だと思うよ、素直に。

でもやっぱり私は菩提樹の絵の方が好きだわ。


アンタの言葉を借りるなら、必要なんだってことかもしれないね。


こっちの港と猫の絵の方が好きなやつもやっぱりどっかにいるんだろうさ。


もう一枚あるんだろう?

見せて頂戴。


…あら、ずいぶん経っちまったね。

聞こえたかい?

鐘楼の音がしてきたよ。


あんたは料理をそろそろ始めないといけないよ!

ほら、行きな!」


しっしっと親父さんを追い払うと、女将さんはニヤニヤして言った。


「いつもと違う絵って、やっぱりあれかい?女の子かい?」


ヴァロはびっくりし過ぎて椅子から転げ落ちる所だった。


「違う!

女の子じゃないよ!


いつもの絵となんか、ち、違う気がするんだ。

でもそれが何かわからない。


気のせいかもしれないし、気のせいじゃないのかもしれない。


と、とりあえず、説明のないまま観て、みて欲しい。」


女将さんはなーんだと唇を尖らせた。

この年頃なんだから恋の一つや二つあったって不思議じゃないのに、と。


そのためにこのお姉様は、はしゃぎそうな親父を引っ込めたのだ。


見知った男の子の甘酸っぱい初恋の話を聞けると勝手にワクワクして、勝手に裏切られた女将さんが無造作に包みを開く。


夕陽だ。


なんの変哲もない、赤く染まる丘を描いただけの夕陽。


「…私がどう感じたかでいいんだよね。


…うん。

多分、さっき見せてもらった3枚、2作はそこにアンタを感じなかった。


菩提樹も、港も猫も、アンタを通してはいるけれど、自分を彼らの中に入れている様な気がしなかった。


でも、これはアンタの、ヴァロちゃんの絵に感じるよ。


なんでそう思ったのかはぜーんぜんわからないけど。」


あぁ、そうかもしれない。

素直にそう思った。


さすが女将さんだ。


今まで絵を描いた時に降る雨を見る度にどこか世界に拒絶されている感覚があった。


だから今までの絵に自分は居なかったのだろう。


しかし不思議な赤い絵の具は雨を降らさなかったので、筆先が夜に溶けるほど没頭した。


もしかしたら、これからこの赤い絵の具を使えばなんとなく取り残された気分から解放されるかもしれない。


この夫婦の様に、少しだけでも受け入れてもらえる事が増えるかもしれない。


「いい絵だと思うけど、ウチに置くには強すぎるね。

宿屋で変に元気になられても困るってもんだろ?


うーん。

この丘の家の女の子は引っ込み思案でね。

いい子なんだが、いい子すぎるというか。


そんな子に似合う気がするね。


完成したら持って行ってみたらどうだい?


アンタの言う、必要そうな人、だ。」


…女将さんは知らないはずだ。

丘の女の子がこの絵の具を作ったと。

それが僕にとって魔女たちが使うどんなものより救いになる可能性があると。


僕にはなによりも必要な物を、僕のこの絵を必要としてそうな人が作っている。


なにか、力が湧いて来た気持ちだ。


完成させよう。

きっといい絵になると思う。

ヴァロは無言で絵を包み直して部屋へと駆け上がって行った。


上の方でドアの閉じる音が聞こえた後、キッチンから親父が顔だけ出した。


「なんか、男が男になる瞬間を見た気分だな。」


「あんたも見習って、早くかっこいい男になんなよ。」


「嘘だろ…。」


「あはは、冗談だよ。

どうせ夢中になってご飯なんか忘れちまうだろ。

冷めても食べられるヤツ、作ってやっとくれ。」


親父は振り返らずに親指を立てた。

なんか釣られて親父もやる気に満ち溢れちゃったのである。



筆が乗るというのはこういう事だろうか。


早く描けるというわけではない。

上手く描けるというわけでもない


何かが筆に乗る。


ノリノリで描いて居ると女将さんに引っ張り出され、ご飯を食べて風呂を浴び、また部屋に篭る。


そんな生活を5日ほど続けると、はたと筆が止まった。


なんとなくこれ以上描く物はないし、削るところもないと感じた。


上手く描けた気がするなぁ。


伸びをすると冬の並木を歩いた時の様に、身体がの至る所からパチパチと音がした。


絵の全体を確認しようとイーゼルから下ろして壁に立てかけ、ベッドに腰を掛けたところで、なんとなく気が抜けたようで、ふわっと横になってしまった。


直ぐに身体を起こしたつもりだが、周りの様子が違うし、身体に毛布が掛かっていた。


どうやら寝てしまったようだ。

それもそこそこ長い時間だと思う。


恐らく女将さんが心配して様子を見に来てくれて、力尽きた僕にこれを掛けてくれたのだろう。

証拠にサイドテーブルの上に水差しがある。

表面に水滴もなく、乾き切ったガラスの透明さが時間の経過を物語っているようだ。


今が何時か全くわからないが、重い身体のまま階下へ降りようとドアを開けると、ドア前にドライフルーツの入ったパンとピクルスの盛り合わせと、ベーコンにナッツとハチミツが掛かったものが置いてあった。


…お腹も空いたかもしれない。

すごくペコペコな気がする。


部屋に戻りパンを齧ると、いつもより美味しい。

ハチミツベーコンとピクルスを乗せて齧ると、さっきよりも、もっと信じられない程に美味しくかんじる。


…全然足りない。


そんなに食が太い方ではないが、満腹感がない。


なんか最近自分が信じられない。

自分はこういうものなのだろうというのが、どんどん崩れていく。

勝手に積み上げた壁は意外とそんなに大切なものではなかったのかもしれない。


壁に立て掛けた夕陽の絵は、過去自分が描いたものの中で最高だ。


僕は絵描き。


なら、最高の絵の前では素直で居るべきだ。



起きたのはどうやら早朝だったらしく、ご飯のお礼を言い、寝過ごした際に期限が過ぎた宿屋の代金をもう1週間分を支払った。


女将さんも親父さんも笑っていて、芸術家に普通の生活リズムは期待していないと言われてしまった。


お腹も空いていて力も湧いてくるので、そのまま宿を出た。


屋台で朝食べるには重そうな肉を甘辛く煮付けたものを挟んだピタサンドを買って、食べながら丘の方へ歩いていく。


食べ物のチョイスを間違えたなぁ、手がベタベタになってしまった。

見えないけど口の周りもベタベタな気がする。

これから人の家を訪ねようというのに、間抜けな姿になっている気がする。

手の汚れてないところで口をゴシゴシしながら家の前までやって来て、ヴァロは固まった。


ふと我に返ると、完成した喜びと起き抜けのテンションで来てしまったので、一体なんて言って絵を見せたらいのかさっぱりわからない。


木の下でおじさんに会ったことを言うべきか、女将さんの話を持ち出すべきか、それとも絵の具の話をするべきか。


悩んで立ち尽くしていると右手に何かが触れた。

べちょべちょという不快な感覚にそちらを見ると、黒に白の模様が入った犬が尻尾を振っていた。


はへはへとじっとこっちを見ているが我慢できなくなったのか、犬はヴァロへと飛びかかり、右手をベロンベロンと舐め始めた。


…ピタパンのタレか。

強いスパイスとか、玉ねぎなんかは入っていなかったので、まぁ大丈夫だろう。


「なあ、お前さぁ、ご主人呼んできてくんない?

タレは好きなだけ舐めていいからさぁ。


なんか勢いで来ちゃったけど、普段人を避けて生きて来たから、どう声を掛けて良いものやらさっぱりわからないんだよ。」


犬はチラッと一瞬だけこっちを見たが、舐めるのに忙しくて僕の相談なんて聞いている暇がないようだ。


頼むよ、良い加減味がなくなって来たでしょ、その手は。


「わっ!やめて!顔はやめて!」


前脚で押さないで!

絵描きの座り込んで作られた脆弱な肉体には、大きな犬を支える体力などないので、結局押し倒されてしまった。


あぁ…夢中だ。

そういえば顔にもタレが付いているっぽいんだっけか。


ヴァロは家のドアの横に絵を立て掛けて置いて良かったなぁと思っていた。


おじさんが言っていたよく懐いている犬ってこいつのことだと思う。

羊もこんな感じだったら毎日騒がしそうだ。


されるがままに身を任せていると、遠くから笛の音が鳴った。

犬は我に返った様に僕から離れると、音のなる方へ振り返りもせずに走り去って行った。


…ひどいよ。


呆然としているといつの間にか横に女の子がしゃがんでいた。

驚く元気は残って居なかったので、一言だけ自然とこぼれ落ちた。


「こんにちは。

ヴァロと言います。」


女の子はニコッと笑ってタオルを差し出してくれた。

その指先は赤く染まり、ふわっと最近嗅いだ匂いがした。


あぁ、この子だ。


この子があの赤い塗料を作ってくれた女の子だ。

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