第12話



§



 アラームの音で僕は目が覚める。ふかふかのベッドの上で、目を覚ます。

 ベッドから体を起こすと、おもむろに部屋の扉が開いた。

 振り返ると、



「おはよう」という声と共にお姉さんが姿を見せる。

「・・・・・・おはようございます」



 エプロン姿のお姉さんが微笑を湛え、僕の前に佇んでいる。

 そう――僕は今、お姉さんの家に居候させてもらっていた。



「もうすぐご飯出来るから、先に顔を洗っておいで」



 そう言ってお姉さんは部屋を後にする。

 僕は尚もこの状況に慣れず、面映ゆい気持ちにさせられた。



 まさか本当に居候する事になるとは。自分が下した決断ではあるものの、思いがけない展開である。



 有り難い事に、前に住んでいたアパートよりも生活環境は上方修正されていて、毎日ふかふかのベッドで目を覚ます幸せは手放し難いものがあった。



 元々はお姉さんの寝室のベッドなのだけど、ここに来る時譲ってもらった。

 いや最初は断ったのだけど、そこはお姉さんが譲らずベッドを譲り受けた。お姉さんはと言うと、仕事場として使っている部屋を寝室にしており、布団を敷いて寝てるというから申し訳ない。



 さて、ベッドから降りて洗面所へ顔を洗いに行く。そしてリビングへと向かうと、部屋には出来上がった料理のいい匂いがした。



 テーブルには既に皿が並んでいる。 今日はトースト、オムレツ、サラダにスープと洋食だ。



 ここに来て数日が経つけれど、お姉さんの料理のレパートリーは多岐に渡り、色んな料理が出てくる上、手が込んでいる。最低でも四品は食卓に並ぶし、量も多い。



 元々食が細かったけれど、食事を重ねるにつれ食べられるようになったし、ここに来てから胃袋が大きくなったのかもしれない。



 前よりも肉付きがよくなったのが自分でも分かった。



「歩夢くん、飲み物なにがいい?」



 と聞かれて僕は「リンゴジュースで」と答えるとお姉さんは冷蔵庫から紙パックのジュースを取り出し、グラスに注いで渡してくれるので「ありがとうございます」と一言お礼をしてる間にお姉さんも席に着き、二人で合掌。朝食をいただく。



 食事中は基本的にテレビは付けないのだけどそれで間が保たない、という事はなくお姉さんは些細な事でもよく話しかけてくれる。



「歩夢くん、今日もお仕事頑張ってね?」



 ここに住まわせてもらうようになってから、お姉さんは僕の事を名前呼びするようになった。住まわせるという事が僕への信頼の証なので名前で呼んでもらう事自体は当然の流れと言えた。が、逆に僕はお姉さんの事を名前呼びする時にまだ少しばかり恥じらいを感じてしまう。



「お姉さんも・・・・・・」


「ん? まだ寝ぼけてるのかな? 呼び方が違うよ」


「・・・・・・己影さん」

「えへへへへへへ」



 お姉さん・・・・・・もとい己影さんは名前で呼ばれると露骨に嬉しそうな顔をする。



「己影さんも仕事頑張って下さい。今、結構仕事押してるんですよね?」



 己影さんは漫画家だ。自称・・・・・・ではなく、本当に。

 ここに来る時にその証拠として次号に掲載する内容を見せてもらった事があった。そして雑誌の最新号を見てみれば確かに同じ話が載っていたので己影さんは本当に作家『影踏舞衣』らしい。



「うん、歩夢くんが来てから仕事が手に付かなくなって急いで描いてるとこだよ」


「・・・・・・僕の事はいいんで、仕事頑張って下さい」



 己影さんは売り上げ百万部を超えた売れっ子作家でファンは多い。

 己影さんの漫画をコミックで通しで読ませてもらったけれど、確かに面白い。

 エンタメ色が強い訳ではないけれど、日常の一コマを切り取った話が多く、そこには誇張がない分、共感しやすい。



 また、小説家志望の直人は自身の平凡を嫌い、非凡を求めるところに痛々しさと個性があり、そして夢を追いかける苦悩がリアルに描写されるなど、単なる日常作品に留まらない面白さがあった。



 しかし、一つ懸念があるのが己影さんの描く『隣の芝生は藍い』はアットホームコメディでありつつ恋愛漫画でもある事だ。



 主人公に僕を投影しているのだとしたら己影さんの男性のタイプは僕という事になるんじゃないか? という発想は自信過剰とも取られかねないけど、でも決して可能性のない話じゃない気がするし、だとしたらこの同居生活って大丈夫なんだろうか?



 いや別に己影さんが変な気を起こしているとかではないけれど。



「ごちそうさまでした」



 朝食を食べ終えたら仕事の支度をする。家を出る際、己影さんが玄関で見送りをしてくれる。



「歩夢くん、お仕事頑張ってね」

「はい――行ってきます」



§



 コンビニで働いてから数ヶ月が経ち、業務には慣れてきたけれど、未だクレーム対応だけは慣れない。



 ほとんどのお客さんはいい人だったり、取り立てて気にするような難のある人ではないけれど、たまに厄介な人は、少なからずいる。



 そういう時は機械に徹するべしという先輩の教えに従い、事務的に済ませるけども、今回のクレーマーはかなり厄介な人だった。

 それは夕方の事――。



「いらっしゃいま・・・・・・せ」



 店の扉が開き、お客さんが入って来たので、僕は条件反射で口を開く。しかし、最後まで言葉が続かず、唖然としてしまう。

 そこにいたのは、見慣れた人だった。常連さん――己影さんんだった。 ・・・・・・この人っ。



 己影さんは、以前と変わらず帽子にマスク、メガネのフルフェイスをしていた。

 すると金剛先輩が僕の元に歩み寄ってきて耳打ちする。



「来たね。きっと私がレジに立ってたらずっと居座るつもりだよ」

「はぁ」



 僕は気がそぞろで、間の抜けた返事しか出来ない。

 少しして、己影さんはいつも買っているアイスコーヒーの氷と食べ切りサイズのチョコレートのお菓子を持ってレジへとやって来る。



 そしてカウンター越しに対面。

「えぇ、と・・・・・・いらっしゃい、ませ・・・・・・あの、レジ袋、ご利用でしょうか・・・・・・?」



 引きつった笑みを浮かべながら僕はそう尋ねると、己影さんは、



「はい。後それと、スマイル下さい」



 と、余計な事を言う。

 本当、余計な事を言う。

 いや、やめてそういうの・・・・・・金剛先輩、めっちゃ不審がってる・・・・・・! なんか急に馴れ馴れしい態度に、めっちゃ不審がってるよ・・・・・・!



「あのそれ、お店違うんで・・・・・・」



 僕は、冷や汗をダラダラ流しながら、なんとか応対。バーコードを読み取り、袋に商品を入れていく。そして会計を済ませると、己影さんは去り際、「お仕事、頑張って下さいね?」と、一応は気遣いのつもりか、敬語でそう言うのだった。



 己影さんは軽やかな足取りでお店を後にする。

 その背中に向かって、



「・・・・・・あ、ありがとうございましたぁ・・・・・・」



 僕は声を振り絞った。

 その後、金剛先輩から声が掛かって、「ねぇ、歩夢くん」「ひゃいっ?」つい、声がひっくり返る。



「ど、どうしたの・・・・・・?」

「い、いえ・・・・・・」



 怪訝そうにしながら、金剛先輩は続ける。



「あの常連の人と、なんかあったの? 急に馴れ馴れしくなってない?」



 やっぱり聞かれた。

 そりゃ気になるに決まってる。

 僕はしどろもどろになりながら「さぁぁ・・・・・・?」としらを切る。それしか言えない。言えない。実は一緒に暮らしてるんですよ、とか言えない。言える訳がない。



「なぁんか、怪しいなぁ」

「へっ? いや、なんもないですよ? ほんとうに・・・・・・」

「いや、あの常連さんの事だよ?」



 僕の勘違いを正してくる。

 ・・・・・・しまった墓穴掘った。むしろ怪しまれる事してどうする・・・・・・。 もう、疑心暗鬼でセンサーがバカになっていた。本当、なにしてくれてんだあの人・・・・・・。



「なにもないのに、あんな馴れ馴れしくなるかな? 歩夢くん、あの人に、なんもされてないよね?」


「さ、されてないですよ・・・・・・」


「そう、ならいいけど。でも気を付けてね? お客さんに目を付けられる事ってあるからね」


「はい・・・・・・」



 目を付けられてるどころか、目を掛けられてるんだけど、それは言わないもちろん。

 僕は墓穴を掘らないように気を付けながら、己影さんの話題から脱出した。

 本当に余計な事をしてくれる・・・・・・。



§



 仕事が終わって家に帰る(帰るっていうのもまだ慣れない)。

 そして、リビングに向かうと、己影さんが顔を出して「おかえりなさい」と労いの気持ちを混ぜてそう出迎えてくれた。



「ただいま、です・・・・・・。てゆうか、己影さん」



 手短に挨拶を済ませ、僕は今日の出来事について問い詰める。



「なんで今日、うちに来たんですかっ?」

「えー、だって歩夢くんが働いてるとこ見たかったし♡」



 ハート付けるの腹立つな・・・・・・。



「言っておきますけど己影さん、職場で不審に思われてますからね? いつもフルフェイスで、絶対僕がいる時しかレジ行かないしで、職場の人からはストーカーって、己影さんの事なんじゃないかって勘ぐられてたんですから」


「だから違うってば!」



 いつも反論してくるけど、疑われるような事してる時点でダメなんだよ。てゆうか、今その話はいい。



「百歩譲ってお店に来るのは仕方ないです。でも距離を詰めて来られると怪しまれるのでせめて他人として振る舞ってもらえないでしょうか?」


「だから敬語で話したじゃない」


「スマイル下さいとかふざけた事抜かしましたよね?」


「あれは冗談だよ、ちょっとからかっただけじゃない」


「だから、そういうのをやめて欲しいんですよ!」



 僕は声を荒らげると、己影さんは引き下がる姿勢を見せる。



「分かった、以後気を付けます。でも買い物には来ていい?」

「・・・・・・勝手にして下さい」



 どうせ断っても来るんでしょ。どうせ。

 話が終わると、己影さんは話題を変える。



「それはそうと、ご飯出来てるけど先ご飯にする? それともお風呂がいい?」



 新婚夫婦みたいな事を言う己影さん。



「それともワ・タ・シ♡?」とかベタな事を言ったらどうしようかと思ったけど、そこは大丈夫だった。「ごはんいただきます。お腹空いてるので」


「そう。じゃあ早く着替えておいで! その間に準備しとくから!」



 そう言って己影さんは張り切ってキッチンへと向かっていった。









 相変わらず己影さんの料理は美味しい。

 その日の夕食はトマト煮込みのハンバーグで、トッピングに二種類のチーズが乗せられていた。



 己影さんの作る料理は毎度手が込んでいて、一人暮らしの時に自分がいかに貧相な食事をしていたのかが分かる。



 己影さんは非常識な割に気配りに優れ、芸が細かい。いちいち僕の好みをリサーチしては、胃袋をガッチリ掴んでくる。



 居心地が良過ぎて今の環境を手放すのが惜しいと感じる。



 己影さんの家は広々してるし、お風呂もちゃんとあって壁が厚いから隣の部屋からカップルの喘ぎ声も楽器の音もネズミの走り抜ける音も聞こえない。ベッドはふかふかでご飯は毎食美味しくて猫ちゃんもいる。



 まさに地獄から天国だ。

 でも、あまりに居心地がいいから反骨心というか、野性味が薄れてダメになっていきそうな不安がないでもない。曖昧に言ってる辺り、もう既に薄れてるんだと思う。



 骨抜きにされて自力で歩けなくなったらどうしよう・・・・・・。

 食事を終えた後はお風呂に入る。

 お風呂が沸き上がるお知らせ音が聞こえると、僕は着替えを持って風呂場へ向かうと――、



「ふふ、ふふふ」



 と、いう笑い声が聞こえてきた。

 その声はもちろん己影さんだ。



「己影さん・・・・・・?」



 僕は恐るおそる風呂場に入ると、己影さんが風呂場で膝を突きなにかをしていた。


「あ、歩夢くん」



 振り返った拍子にお風呂場のタイルになにやら置いてあるのが見えた。



「あの、それはなんですか?」



 僕は聞くと、己影さんは待ってましたと言わんばかりの顔をして、活き活きした表情で話を始める。



「お風呂グッズだよ! ネットで調べたら色んなのが出てきたからつい買っちゃったの。よかったら歩夢くん使ってみてよ。キャンドルに、プロジェクタードーム、アクアライトに、浮かぶおもちゃに水鉄砲!」


「いや、子供じゃないんだから・・・・・・」



 見れば、どれも子供が喜びそうなおもちゃばかりだ。

 僕の事、小学生とでも思ってるんだろうか?



「折角買ったし、どれでもいいから試して欲しいな!」

「分かりました・・・・・・」



 あまり長風呂は得意ではないけれど、買ったものを一度も使わないのも勿体ない。

 湯船に浸かる際、明かりを消してキャンドルを焚き、浴槽にアクアライトを沈めてみた。



 浴室は青白く輝きながらキャンドルの仄かな甘い香りが浴室に漂い、なんともムーディな空間が広がっていた。



 うーん・・・・・・落ち着かない。

 どうにも自分には性の合わないリラクゼーショングッズだ。無難に入浴剤を沈めて香りを嗅ぎながら湯船に浸かる方が合ってる気がする・・・・・・。



 後々、僕の好みや傾向が分かってくると、そうしたグッズは影を潜める事になるのだけど、その代わり僕が入浴剤を入れるのが好きだと言った翌日、とんでもない量の入浴剤が取り揃えられた。日本の名湯や四季折々の花の入浴剤など、一年分の懸賞かというくらいの量が現在、家にある。



 この人はあれだ、安易な事を言ったらいけないタイプの人だ。

 好奇心と奉仕精神が旺盛なタイプで、それが品数と種類に反映される。



 これを機に僕はなるべく安易に自分の意見を述べるのはやめる。あくまで居候させてもらってる身分だという事を改めて肝に銘じるキッカケとなった。

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