第6話

放課後、あっくんとうちで勉強することにした。

部屋で問題集を広げてすぐ、あっくんがこっちを見た。

——森先生の、ほんとに受けないの?

「えっ、受けない受けない。森先生が無理。ロシアも興味ないし」

全力で手を振ったけど、あっくんはずっと何か言いたそうな顔をしていた。


七時になると、さすがに窓の外は暗くなってきた。

あっくんも誘って一緒に夕飯のカレーを食べる。


つけられたテレビからまた、嫌なニュースが流れた。無意識に下を向いて食べる。

それでも、つらそうな顔の人たちが目に入る。

空爆、ゼレンスキー大統領、プーチン政権、アナウンサーが眉間に皺を寄せて話す。

現地の近況をリポーターが伝える。取材を受けた住民が怒りに顔を歪めて叫ぶ。

「なんで私達が被害に遭わなくてはいけないの」


チャンネルを変えたいけど、お母さんがリモコンを離さない。

「日本は平和でよかったわ」

お母さんが麦茶を注ぎながら言った。


ロシアのウクライナ侵攻が始まったのは去年——2022年二月後半だった。

その時、おれは期末試験のことしか頭になくて、きっとそれはおれだけじゃなくて、高校生とか社会人とか、みんなの多くは自分のことしか考えてなかったんじゃないかと思う。

テレビを見ないおれはお母さんからそのことを聞いて、ネットで流れてきたニュースを薄目で見たけど、それ以上を知ろうとは思わなかった。

たくさん人が血を流したり、死んだりする映像がこわかったから。


本当に日本は平和でよかった。

空から攻撃をされることも、兵士になるように強制されたり、家族や親戚が兵士になることもない。

空襲警報に怯えたり、ガレキの下敷きになることもない。




それから、三日が経った。

その日は朝からどんよりとした曇り空。でも、相変わらず暑かった。


入部試験と聞いたその日は、なるべく教室にいないようにした。

休み時間の度、図書室、中庭、食堂へ移動する。

また森先生に試験とかロシアとか話をされても困るし。

そもそも入部試験なんて受けるつもりはないし。


でも、昼休み——。


「成田ヒロくーん、いますかー?」


あっくんと屋上の隅でひっそりご飯を食べていたのに、森先生はあっさり現れた。

「突然ですが、これから山根先生より成田ヒロくんをお借りする許可を得ましたー」

おれは食べていたおにぎりを落としそうになる。

「これから私の代わりに授業をしていただきます。内容は国連について。自由に話してください。クラスは3年2組です」

先生はにっこり笑った。

「これが入部試験です」


あっくんと顔を見合わせた。先生を振り返る。

「無理。無理、無理無理、無理です」

「あらー、ごめんなさいね」

先生は眉をハの字にした。

「山根先生の許可を得た以上、成田ヒロくん、君はもう逃げられないんですよー」

おれは口をパクつかせた。

同時に空から雨が落ちてくる。

「えっ……ちょっ……」

 おれたちは慌てて弁当を片付ける。先生は手持ちの傘をポンと開いた。


まってまって。

選抜クラスの人たちに、文理クラスのおれが授業するなんてあり得ない。

そもそも、試験範囲って、ロシアのウクライナ侵攻だったのに。


「ウクライナ情勢について調べた成田ヒロくんなら、国連に関する理解も得られたことでしょう」

鞄に弁当を詰め込むおれたちを先生は見下ろした。

先生の傘からポタポタと雨粒が落ちる。

雨はどんどん勢いを増していく。

「む、無理です」

 顔に打ちつける雨を拭いながら言う。前髪はすっかり濡れてしまった。


「成田ヒロくん」

先生は傘を差したまま腰を折った。

「私は君みたいなおバカさんに、完璧なんて求めていると思いますか?」


 おれは呆然と先生を見上げた。

「……じゃあ、なんで……」

 傘の影で、先生の顔がふっ、とゆるんだ。

「あなたは興味深い思考回路をお持ちです」


 ——え?


「あなたが何を思い、何を感じているのか、それを他者に伝えてほしいのです。

そこに相手が優秀であることや、知識があることは関係ありません。

私が認めたあなたが、それを断ることはとてつもなく愚かなことです」

 

先生はポケットからハンカチを取り出した。手を伸ばして、濡れたおれの頬に当てた。

「何より、数少ないあなたを評価する者の頼みを断れば、あなたは一生後悔するでしょう」


その時、肩を叩かれた。

 振り返るとあっくんが頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る