第5話

週明けの月曜は雨の降るユウウツな朝だった。


教室前であっくんと別れようとすると、ぐい、と腕を引かれた。

振り返ると、あっくんが腕を掴んでいる。

おれの、え?とあっくんがおれの顔にハンカチを当てるのは同時だった。

「いいって、自分でやるから」

かっと顔が熱くなる。


あっくんは、おれを小学生くらいに思ってる。


もういいから、と伸ばした手を掴まれる。あっくんはおれの前髪、頬と顔を拭く。

最後に前髪を整えて、あっくんは口の両端を吊り上げた。

こんなの見られたらどうすんだ。

ちょっと怒ってるおれの頭を撫でて、あっくんは自分のクラスに去って行った。


その後、周囲を気にしながら教室に入ったおれは、そのままの状態で固まった。

思えば雨降りの月曜なんて、よからぬ一日の予兆だったのかもしれない。


おれの机に森先生が腰かけていた。


なんでいるんだろ。


先生を見ると、こっちに気付いた先生は片手を挙げて笑った。

「成田ヒロくん、待ちくたびれましたよー。成績が悪いのに、少しでも早く来て勉強する気は皆無なんて、さすがですねー」

相変わらず、強烈な人。

見た目はこんなに魅力的なのに。


「あのー、何か……?」

「昨日の話、もう忘れちゃったんですかー?」

先生は右耳に髪をかけた。雨の湿気はどこか髪はさらさらと光っている。

「私の研究会、入部したらマンツーマン補習してあげる件ですよー」

えっ、順子とマンツーマン?、最高かよ……その場が一気にざわついた。

「でも、昨日、入部の意思は確認できないって……」

「そのままの意味ですけど?」

先生はにっこり微笑んだ。

「入部の意思が確認できない、つまり、君の入部試験が不合格という訳ではありませんよー」


一瞬の間があった。

「入部試験?」

なにそれ。

先生は目の前に、一枚の紙を突き出した。

「入部試験、応募票……?」

A4の紙に書かれた、「入部試験応募票」の文字、そして、下にはしっかりおれの署名がある。

いつの間に?よく見ると、写しになっている。

あ、昨日の。

昨日、名前を確認された時、書いたメモ用紙。あれの写しが応募票になっていたらしい。

「成田ヒロくん。君は昨日、口頭で応募資格試験に合格しました。だから、こうして応募資格を授けたんじゃないですかー」

昨日の、応募資格試験、ってもしかしてあの、質問?

「……無回答なのに合格、なんですか?」

「君がちゃんと当事者の気持ちに寄り添えるかどうかをテストしたんです」

 先生は口の両端を吊り上げた。

「入部試験は三日後です。試験範囲はロシアのウクライナ侵攻について」

先生はそう言うと、おれが口を開く前に颯爽と立ち去った。



「森先生?ロシア研究会だよ」

昼休み。

あっくんと二人、担任の山根先生に聞いてみた。

先生は中庭の軒先で缶コーヒーを飲んでいた。目の前で運動部数人が、雨の中びしょ濡れになりながらボールで遊んでいる。

「……ロシア研究会?」

 あっくんと顔を見合わせた。

「お前、今さら知ったのかよ」

先生は心底あきれたようだった。

「入部試験とか言われた時点で調べるだろ。あの、森先生だぞ?」

 先生の声でボールで遊んでいた二人がこっちを見た。おれは苦笑するしかない。

「——ちなみに、なんでロシア研究会の森先生が、ドイツ人とユダヤ人の話をしたのか分かんのか?」

「あ、はい」

おれは頭を下げた。

「ありがとうございました」

あっくんとその場を後にする、はずが——。


「エッ」

背後で先生が叫んだ。

なになに?何の話?運動部たち濡れた髪を掻き上げて集まってきた。

「成田、お前、理由を説明してみろ」

先生はコーヒーを脇に置いて眼鏡を押し上げた。珍しく動揺している。


なに?この反応。


よく分からないまま口を開く。

「……ユ、ユダヤ人の迫害はヨーロッパ全体で起こったことで、ロシアもしてたから」

「ユダヤ人迫害って、ナチスだけかと思った」

バレー部の斉藤くんが鼻の頭に皺を寄せた。

おれは斉藤くんを見た。

「——ロシアでのユダヤ人の迫害はポグロムって言われてる。

 ちなみに、迫害されたユダヤ人はホロコーストから身を守るために国外へ逃げた。

 で、アラブ人のいる土地に、自分たちの国を作ろうとした。

 当然、アラブ人は反発して戦争になった。

 でも、ユダヤ人をアメリカとか大きな国が応援したから、結果的にアラブ人はほとんどの土地を奪われて、多くは難民になった。

 それで、ユダヤ人はイスラエルという国を作った」


その場が静まった。

運動部たちが変なものでも見るような目でおれを見ている。それは担任も同じだ。

「お前、なんで成績悪いのに、そういうことだけは詳しいんだよ」


……おれが答えたことが意外だったみたい。


「そうだよ、オタクのくせに」

斉藤くんがおれのスマホを指さした。

「どうすんの?入部試験」

いやいやいやいや、思わず首と手を激しく振った。

「絶対無理、ほんといろいろ無理」

「そーだよな。オタクには無理だよな」

 その場のみんなが一斉に笑った。

「お前らその言い方はないだろ」

先生は注意しながら一緒に笑った。


 ——気にしないで。

 あっくんが肩を叩いて励ましてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る