第4話
「彼はどちらも選びたくなかったんでしょうねー」
その日の夕方。
森順子は名門S大学の某研究室にいた。
窓からは夕日が差し込み、向かいに座る黒髪女性の顔を照らしている。
女性は陽射しを拒むことなく微笑むように目を細め、コーヒーをすすった。
こちらもまたよく冷えた室内。二人のカップからは湯気が立ちのぼっていた。
女性はカップを置くと背筋を伸ばした。正面の森を見る。
「結果的に、その未回答という選択を気に入ったということかしら?」
色白の肌、夕日をのみ込む切れ長の目。
森は顎を引いた。
「私はたっぷり3分、時間を取りました。いえ、実際は3分以上です。でも彼は答えられませんでした」
「——で」
女性は森を見た。
「彼の知識は成長し続けている、と?」
「そういうことです」
森は口の両端を吊り上げた。右耳にかけた髪がさらりと落ちた。
「彼は、あの曖昧な判断基準を知っていましたし、即座にホロコーストの説明をしました。把握したうえで、答えなかったんです」
なるほどですねー、女性は頷いた。
「ドイツ人を選択し、ホロコーストを止めたいです、それが最適解かも知れません」
森は微笑んだ。
「例えば、オスカー・シンドラーのように、例えば日本人の杉原千畝のように。
方法はどうであれ、人道的な見解かつ、自身は苦しむ可能性の低い合理的な回答です」
そこで、森は女性に身を乗り出した。
「逆に、ユダヤ人を選択して、ホロコーストを勧める人間になりたくありません、そう回答すれば、それほど胡散臭いものもないでしょう」
「つまり、結果は一択しか予想していなかったのね?」
「でも、彼は想像の斜め上をいきました」
森は続ける。
「それは、私が質問した瞬間、彼がドイツ人とユダヤ人、双方の気持ちに本気でなり切ったからです。
自分の将来より、当時の歴史を想像し、当事者の気持ちに本気で寄り添ったのです」
「当事者の気持ち、とは何かしら?」
女性は眉を潜めた。
「ドイツ人は——世界のホロコーストへの圧力に抵抗できず、目の前で多くの犠牲を目にする苦しみがあります。
親しい人がユダヤ人だったドイツ人もいたでしょう。耐えられず命を絶った者もいますし、反抗したことで自身が犠牲になった人もいます。つまり——」
森は視線を落とした。
「ホロコーストは、決してユダヤ人だけの苦しみではないのです」
「それで、彼はそれを理解し、自身に置き換えた。その、一瞬で。そういうことなのね!」
女性は両手を合わせた。
森はにっこり微笑んだ。それにしても、と森は目の前の女性を見た。
「まさか、ここで再会できるなんて光栄です」
「教授から森がここに入り浸っていると伺っていたの」
女性も目を細めた。
「私たち、ここを卒業してもう10年近く経つのに変わらないわね。ここも。——森も」
森は肩をすくめると、口の両端を吊り上げた。
「ダイヤの原石をみつけることは、趣味というより教師としての使命ですから」
「すっかり教授に似てきたわねー。私も彼に興味がわいたわー!来年まで日本にいられたら、彼の今後を見られたのにー」
彼女は身を乗り出して微笑んだ。
森は胸を張った。
「卒業まであと半年。彼を私のものにしてみせましょう」
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