第3話

始業式の後は山根先生の退屈なホームルームだ。

こういう時、時計の針は驚くほど遅くなる。

窓の外、砂漠みたいな校庭を眺めながら、早く秋にならないかなぁとため息をついた。


なんとかホームルームが終わると鞄を肩にかけた。

教室の外へ出る。

あっくんは2組の選抜クラス。いつも廊下で合流して一緒に帰る。

その時だった。

「成田ヒロくん、いますかー?」

教室から高い声がおれを呼んだ。聞き覚えのない、女の人の声。

振り返って、えっ、と声が洩れた。周囲もしんと静まって視線がおれに集中する。

森先生だった。

教卓に立って、教室全体を見回している。

これまで森先生と話したことは一度もない。

森先生は世界史の先生だ。でもおれは選択授業で地理を選択しているから、先生の授業を受けたことは一度もない。

おそるおそる教卓前に行く。

「おれ、ですけど」

先生の前に立つと、先生は下から上までじろりとおれを見た。

「いらっしゃったんですね。全然気づきませんでした」

にっこり笑った後、おれの耳元でささやいた。

「相変わらず、チビで目立たない子ですねー」

透明感のある声なのに、刃物みたいな言葉。おれの鼓膜から胸にかけてえぐった。

後ずさりした瞬間、おれの手首を先生が掴んだ。

「危ないですよー。後ろの机、ぶつかりそうです」

口をパクつかせていると、先生は眉を寄せた。

「成田ヒロくん、少しだけお時間よろしいですか?」



森先生が連れてきた場所は社会科準備室だった。

六畳くらいの狭い部屋で、凍えるほど冷房が効いている。窓からさっき眺めてた灼熱の校庭が絵画みたいに小さく見える。

こんな部屋に入ったのは初めてだ。隣の社会科室から女子たちの楽しげな声が聞こえてきた。

先生とテーブルを挟んで向かい合う。

テーブルには先生の分のコーヒーと、メモ用紙だけが置いてある。

「今日、成田ヒロくんをここに呼んだのはですねー」

先生はコーヒーを口に含んで目を細めた。

「ある取り引きを提案するためです」

「取り引き?」

「まず、成田ヒロくん、四月時点の君の進路希望票を確認しました」

展開が読めない。

固まったままのおれに先生が顔を近付ける。

「君の第一志望はB大学。偏差値35、バカ大学です」

おれは咳き込んだ。

「……え?」

「しかも、そんな君はそれすらD判定でしたねー」

口元に手を当てて上品に笑う。

でもその笑顔がこわい、こわすぎる。

「そこで、私から提案です」

先生は人さし指を突き出した。

「成田ヒロくん、君が私の研究会に入部したら、試験直前までマンツーマン補習授業をしてあげます」

マンツーマン補習授業?

「これまで私の補習を受けた生徒で志望大学に落ちた者はいません」

「……あの、なんで?」

先生は口の両端を吊り上げた。上目遣いでこっちを見る。

「君が本当は頭がいいこと、私はちゃーんと知ってるからです」


一瞬の間が生まれた。

「あの」

おれは頭を搔いた。

「別の誰かと勘違いをしてると思います。おれはそんなに頭がよくな……」

「ええ、その通りです。成田ヒロくん、君はバカです。もし勘違いだったとしても、言質を取って補習を受けてしまえばいいんですから」

先生は笑った。

「残念ですが、君はそこまで考えられませんでしたねー。さすが偏差値35以下です」

可愛い声がよけい胸をえぐる。

「それでー?」

長いまつ毛を瞬かせ、先生は小首を傾げた。

「私の研究会への入部、いかがします?」

「あのー、おれ……先生の研究会のこと、知らなくて……」

「今から3分、時間をあげます」

先生は三本、指を突き出した。

「20世紀で、ドイツ人かユダヤ人、どちらかにならなければならないとしたら、君はどちらを選択します?」

……20世紀——ドイツ人——ユダヤ人——?

 眉間に皺を寄せると、先生は続ける。

「ドイツ人かユダヤ人かという判断基準ですが、あくまで当時のものにのっとります。例えば、ユダヤ教の人はユダヤ人とされましたし——」

 そこで先生が小首を傾げた。

おれは口を開いた。

「……祖父母4人のうち一人でもユダヤ教の人がいればユダヤ人……」

「正解です」

 先生は小さく拍手した。

「この他にも見た目とか——当時の基準は曖昧でしたね」

 おれは頷いた。「では」先生は続ける。

「この質問の回答で、君の入部への意思を確認します」

入部の、意志?

おれは唾をのみ込んだ。


刻一刻と時間だけが過ぎていく。


でも結局、言葉一つ出てこない。


「あの……」

「はーい、時間切れです」

先生は手を叩いた。

「この時、何が起こっていたか、成田ヒロくん、ご存知ですか?」

おれは息を吸い込んだ。

「ナ、ナチス・ドイツの、ホロコーストが起きました」

先生は腕を組んで小首を傾げた。

「ホロコーストって?」

「……ユダヤ人虐殺です」

先生の顔から笑顔が消えた。まっすぐにおれを見る。

「具体的に何が行われたか分かりますか?」

「く、国全体が法律でユダヤ人差別を進めて……」

「続けて」

「ユダヤ人たちは自由な場所に住めなくて、好きな職業にも就けなくて、外出時間は決められて、食料品店はユダヤ人専用のものに制限されたり……」

「あとは?」

「ゲットーの——最悪な環境で亡くなる人が増えて、強制収容所にも、送られました」

「それで?」

「ユダヤ人たちは、国外へ逃げようとすることすら禁止されるようになって、結果的に、このホロコーストでたくさんの犠牲者が出ました」

しばし、間が生まれた。

「君はどうして、ドイツ人を選択しなかったんですか?」

 おれは唇を噛んだ。

「……決められません、でした」

「そうですか」

先生は顔を近付けた。

先生の真顔がこわい。真っ黒の大きな目に、吸い込まれそうになる。

「残念ながら、未回答では君の入部の意思は確認できません」

おれの喉から、はぁ、とも、あぁ、ともいえない声が出た。

「ところで成田ヒロ君、君の名前、漢字でどう書くんですか?」

先生は鉛筆を手に取り、テーブルのメモ用紙に丸を描いた。この中に書いて、ということらしい。

よく分からないままペンを受け取って名前を書くと、先生は立ち上がった。

「では、私からは以上です。成田ヒロくん、お帰りください」

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