先生、質問。

郡冷蔵

どうして?

 夕日は地平線近くから視線を投げかけ、教室の中を黄金色に染めていた。色彩が重なり、輪郭が溶け落ちて、時間のはざかいが後ろへ後ろへ流れていく。

 いつの日か、それを「私みたいだ」と称した少女は、席についたまま右手を挙げて、こう言った。

「先生、質問」

 僕は。

「何ですか、萩窪さん」

 教壇の僕は。

 緩んでいたネクタイを締め直しながら、そう答える。

「先生は、どうして先生になったんですか?」

「……どうして、そんなことを聞くんですか?」

「気になったからでーす」

 にやにやと、意地の悪い顔をする。

 僕は思い切りため息をついてから、改めて肺に空気を送り、お手本通りの回答をした。

「子供が好きだからです」

「嘘。えぇ、嘘だぁ。先生むしろ、嫌いでしょう」

 その通りだ。嘘だった。むしろ嫌いだった。

「……そう見えますか?」

 いちおう混ぜっ返そうとはしてみたが、萩窪は何も言わず、僕をじっと見つめている。

 敵わないな、と素直に思う。

 萩窪はこの歳にして、恐ろしく鋭い少女だった。

 他人の顔色の機微をうかがうことに長けている。

 長けすぎている、と言ってもいい。

 友人付き合いでも、彼女は決して主体にはならず、人と人との間を取り持つようなことばかりしていた気がする。

 それでいいのかと、一度だけ問うたことがある。

 今日のような夕日の美しい日。

 黄金色に輝く世界で、萩窪は、そっと首を横に振り、「ぜんぶ私のためだよ」とだけ答えた。

 僕はなぜそれを問い、それ以上を問わなかったのだろう。

「……ええ。まあ。子供は苦手ですね。なにせ、時折予想がつかないことをしでかしますから。付き合わされる方としては、たまったものではない」

「じゃあ、どうして?」

 僕は自嘲を多分に含んだ失笑をした。

「高校時代が、忘れられなかったからですよ。ずっと心残りなのです。地縛霊のようなものだと思っていただければ、それが一番近いでしょう」

「えぇ、気持ちわるーい」

 身を引く素振りを見せ、くすくすと口元を隠して笑う。

 斜陽に照らされた顔は、鼻筋を境に、光と影が明確にわかれている。イラストか何かのように、はっきりと、きっぱりと。

 言い様のない恐怖を、そこに感じる。

 僕は頭を振って、何のためということもなく、右足から左足へと体重を移動させた。古ぼけた教壇は逐一それに呼応して、ぎしりと軋んだ。

「自分でも、そう思います。でも、案外教師には少なくないですよ。子供が好きだから教師になったのだ、という先生は多いでしょう?」

「多いかもだけど、それが?」

「そういう人間の半分くらいは、実のところ、自らが過ごした子供時代を忘れられないでいる幼さを、無自覚に理想化しているだけに過ぎません」

「うわ、乱暴。そんなことないと思うけどな」

 あんなにも辺りに満ちていた橙の光は、いつしか活力を失い、消え入りそうな弱々しい視線を地平線の彼方から投げかけていた。もう、日が沈む。

 虚無感と一緒に教卓の上のバインダーを腕に抱え、僕は教壇から下りる。ぎぃぃ、と、耳障りな軋みの音。

 萩窪はまだ席についたまま、僕を見ている。

「じゃあさ、質問。もういっこ」

「そろそろ完全下校時刻ですよ」

「どうして──」

 どうして。どうして。どうして?

 頭の中を巡る雑音をなぞるように、萩窪の声が重なる。数え切れないほどに見た萩窪の笑顔と、たった一度だけ、あの夕日の中で見た憂いのある表情が、いっせいに「どうして」を僕に問いかける。

 あの日。僕がちょっとした忘れ物を取りに教室に戻ると、そこには萩窪がひとりきりでスマホを弄っていた。萩窪はいつも誰かと一緒で、そうしてひとりでいることはほとんどなかった。

 僕が教室に入ってきたことに気づいた彼女が、くすりと口元を緩めた。

「私みたいだと思わない?」

「は?」

「夕陽。私みたいだって、思わない?」

 ……どうして?

「どうして、先生になったの?」

 しん、と冷たい静寂が降りる。かちこちと時を刻む時計の音が、ことさら大きく感じる。

 時間は前に前に、進んでいく。否応なく、残酷なほど。僕がどれだけ立ち止まっても時間は止まらないし、まして、逆向きに動き出すことなどあり得ない。

 だからこれは、単純な繰り返しの問いではなかった。より深くを、もう一歩を求めている。

 あの日の僕が出来なかったこと。

「どうして先生になったの。どうして高校生の時間が忘れられなかったの、

 謗るような目が僕を貫いた。

 僕はそれから視線をそらし、最前列の机の脚の下で潰され纏まっている埃の塊を見ながら、口だけを動かした。

「答える必要が、あるのかな。君なら分かっているはずだ。他ならぬ、君なのだから」

「意地悪しないで教えてよ、木崎先生」

「意地悪をしているのは君だし、教えてほしいのは僕だ。どうして──」

 いつも、絶えず、果てしなく。

 萩窪のことを、考えている。恋に焦がれる少女のように、彼女が僕に与えた問いに、偏執している。

 どうして?

「なんで、自殺したんだ。萩窪」

 萩窪は、僕の知る通りの気楽な声で、軽く笑った。

「あは。どうしてだろーね」

 顔は見れない。もはや夕陽は落ち、夜が訪れようとしている。その暗闇の中にある萩窪の顔を、僕は知らない。

 僕には、何もわからなかった。

「君は別に、いじめられてるわけでもなかったし、何か深刻な悩みがある風でもなかった。なのに、ある日突然、昼休みに学校の屋上から飛び降りて、ぐしゃぐしゃの死体になってた」

 悲惨だった。覗き込んだ窓の下で、水風船を投げつけた染みのようになっていた赤い何かの有り様はもとより、教室の中はさらなる混沌を極めていた。

 昼休みの教室の緩慢とした空気が、幾人かの鋭い悲鳴で裏返って、緊迫と、混乱と、絶望とが、何事かを叫ぶ声と、人の出入りによる激しい振動と、そこかしこでぶちまけられた吐瀉物のすえた臭いで彩られた。

 誰も、あんなことが起こるなんて、思っていなかった。

 少しして、死体の正体が萩窪であることがわかると、僕たちの疑問はさらに深まった。

 どうして?

「あんまりにも自殺しそうにないものだから、かなりの間学校には警察が出入りしてたけど、結局、君のスマホに残ってた遺書以外には、君の死に関する情報は何も出てこなかった。その遺書も、画面の指紋からして本人が遺したものだとされて、結局、自殺ということで話は終わった。でも」

 終わった、というには、あまりにもあんまりだった。

 結局それから卒業まで、僕たちのクラスには重苦しい空気が常に滞留していた。水の中でもがくように日々を過ごした。そして、僕は、いまでもそうだ。

 どうして、と問い続けている。

「僕はいまだに、あの日見た君の死体の色にとらわれているんだ。忘れられやしないんだ。君の死んだ理由を知らない限り、僕の魂は、永遠にあの昼休みの教室の中なんだ」

 どうして萩窪は死んだんだ。

 どうして僕は、あの日の萩窪にあと一歩踏み込まなかったんだ。

 どうして?

「それが理由だよ、萩窪。確かに答えたぞ。だから、君も、教えてくれてもいいじゃないか。なあ。どうして君は死んだんだ?」

 顔を上げる。

 萩窪の顔は暗く塗り潰したように、見えない。

「ん。教えない」

「どうして?」

「だって、知らないから。私は木崎くんの妄想に過ぎないから、木崎くんの知らないことは知らないよ」

「……そりゃ、そうだ」

 がっくりとうなだれる。

 例えば萩窪が幽霊として目の前に現れてくれたのなら、どんなに楽なことだろう。けれど違う。幽霊なのは、ずっとこの高校に縛られているのは、僕だけだ。

「どうして?」

 答える声は、もはやなかった。

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