第四話

 俺は前回とは違って、目を開いたまま例の木箱を凝視した。

 襖の奥にあったのと違って何か恐ろしいものが、それも薄められもせず原液百%で入っていると思うと、やはりどうしても警戒してしまう。


 例えば女の子のときに見たようなアレが、急に中から飛び出して来るところを想像すると、目を離さずにはいられなかった。

 時折、消えたと思っていた腐敗臭がぶり返して一瞬臭うことがあり、それが余計に意識を木箱へと集中させていた。


 それだから、俺は堂内で起こっている深刻な変化に気が付くのが遅れてしまった。


 読経が二、三十分も続いた頃だろうか、俺は隣から振動を感じた。

 見ると、総代さんが身体を震わせていた。

 たった一人で地震に遭っているみたいな、異常な揺れ方だった。


 ぶんぶんと、前後に振られる頭。

 前に突き出された腕は、まるで奇妙な手招きでもするようにぐにゃぐにゃだ。


 ロックやメタルのライブで、ヘドバンしまくるとヤバいと聞くが、まるでその高速小刻みバージョン。


 俺はじいちゃんに声をかけようか迷った。

 が、これが読経によって引き起こされている良い兆候なら、それを中断させるのはマズい──そう、判断した。

 俺は立ち上がり、総代さんの肩に手を置いた。以前のように押さえつけようと思った。


 次の瞬間、俺は自分の身体が飛んだ感覚がした。

 そして、思いっ切り、畳に叩きつけられた。

 衝撃と痛みで何が起こったか分らなかったが、全力で突き飛ばされたのは明らかだった。


 総代さんは上体を戻すと、むっくりと立ち上がった。

 身体の揺れは治まっていたが、その動きは操り人形のようにぎこちなかった。

 一歩、二歩。

 確実に、その足は箱に向かっていた。


「じいちゃんッ!」俺は叫んだ。

 叫んだと同時に、視界の中で、じいちゃんが総代さんに向かって来るのが見えた。

 すでに気付いていたようだった。

 俺は加勢しようと跳ね起きた。


 が、目に飛び込んできたのは嫌な光景だ。

 総代さんの、どうなってもいい力で振りかぶった平手──

 それが、じいちゃんの頬に打ち付けられた。鞭で肉を叩いたような、高く鋭い音。

 一回転でもするように、じいちゃんが畳に沈み込んだ。


 俺は面食らったが、すぐに背後から総代さんに飛び付いた。

 上半身ではなく、両脚をがっちりホールド。渾身の力で締め上げ、固定する。

「大丈夫か、じいちゃん!」俺は言う。


 と、総代さんが、顔面から畳に倒れ込んで行った。

 バン、という鈍い音と共に、総代さんのかけていたメガネが吹っ飛んだ。

 俺の力が緩んだ隙に総代さんは全身をくねらせる。

 葉の上を芋虫が進むような、不気味な動きだった。


 下半身の動きで這いずりながら、やっぱり箱に向かって行く。

 俺は立ち上がり、未だモゾモゾしている総代さんの服をつかむ。

 引っ張って足止めしようとするが、動きが変わった。

 まるで四つ足歩きの獣のように、パタパタと畳を駆け出したのだ。

 それでも手を離さなかった俺は、ズッコケるように倒れ、引きずられた。

 その時点で、箱までの距離は大したことなかったが、スピードは緩まらなかった。


 どんっ、と音がして、総代さんは真っ直ぐ頭から香炉卓に突っ込んだ。載っていた木箱が転がり落ちた。

 俺の目の前だった。

「触るなよッ!」激しい怒鳴り声。

 見ると、頬を押さえながら駆けてくるじいちゃんの姿。


 俺は香炉卓を動かした。

 それを使って転がった木箱を押して行く。少しでも、総代さんから離そうと思った。


 急に、背中の服を引っ張られる感触。そして、また飛ぶ感覚がした。

 俺は近くの柱に叩きつけられた。

 あまりの痛みで、声も出なかった。


「大丈夫か!」

 見ると、じいちゃんが総代さんを背後から締め上げていた。

 けれども、それが効いているように見えなかった。

 総代さんは組み付かれたまま、平然と進んだ。そして、しゃがみこんで木箱をつかんだ。


 めりめりと箱が軋む音。やがて箱板が割れ、中身があらわになった。

 辺りに異臭が立ち込める中、俺はそれを見た。


 奇妙な形、奇妙な文様が施された、赤茶色の壺だった。


 まるで歴史の教科書にでも出てきそうだったが、その上面には何か、編んだ藁と縄で封がされていた。


 総代さんが、その封を破ろうとする。

 が、間一髪、じいちゃんの呪文が間に合った。

 封にかけた手が止まり、やがて最初のように身体を揺らし始めた。

 ──いや、そうではなかった。総代さんの動きには、まだある種の規則性が残されていた。


 小刻みに、前後へと振られる頭──

 それがさっきから、ごつんごつんと壺に当たっている!

「じいちゃん、ヤバいッ!」俺は叫んだ。

 総代さんの頭が、ひときわ大きく振り降ろされた。


 パンッ、という乾いた音。


 次の瞬間、堪え難い腐敗臭が風のように押し寄せた。

 それは何か腐ったものを、鼻の中に無理矢理詰め込まれたような不快さだった。酸っぱいものが激しくせり上がり、俺は我慢が利かず液体だけを嘔吐した。

 総代さんは動きを停止し、額から出血した一筋の流れを滴らせながら、ぼんやりと宙を眺めていた。


 手に握られている欠けた壺──

 その中から、ぶわっと黒い霧が噴き出した。


 前回と違って、それはじいちゃんの手の平には留まらず、総代さんの見上げる中空に何か丸まった幼虫か最初期の胎児を思わせる形に集まって行った。


 じいちゃんは総代さんから手を解いて、さっきからそれと対峙するように呪文を唱え続けていた。果たしてじいちゃんが勝っているのか、相手が勝っているのか、それは分らなかった。

 ただいつまでも臭いは消えず、霧散もして行かなかった。

 やがて霧はゆっくりと漂うように進むと、まるで掃除機で吸い込んだようにじいちゃんの中に消えていった。


 辺りの臭いが、嘘のように掻き消えた。

 総代さんが前のめりにぺったり倒れ、じいちゃんも大の字に倒れ込む。

 堂内の空気にも徐々に冷たさが戻ってきた。


 けれども、俺にはとてもすべてが問題なく終わったようには思えなかった。

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