第三話

 翌朝、俺は遠くから聞こえる読経の声で目を覚ました。

 声の主はすぐに解った。じいちゃんは毎朝、本堂で二十分程度お経をあげるのを日課にしていたからだ。


 寝ていたのと同じ姿だったが、俺は本堂へ行ってみることにした。

 普段じいちゃんから、「朝の読経に参加しろ」と言われたことはない。

 けれども、この日は何だかそうした方が良いと思った。


 本堂の引き戸を開くと、じいちゃんは本尊の正面に座り、一定の間隔で木魚を叩きながら読経を続けていた。

 俺は隅に積んである適当な座布団の一枚を取ると、じいちゃんの遥か後ろにそれを敷き、昨日と同じように目を閉じ、手を合わせた。

 やがて、読経が止んだ。

 じいちゃんは本尊の名を何度も唱えると、振り向き、俺が居るのが解るとこう言った。



 じ「おはよう、蒼太。よく眠れたか?」

 俺「じいちゃん、おはよう。──正直、微妙」

 じ「それは良くないな。これからお前には大役があるというのに。しかし時間もないので、手短に今日の手順を確認するぞ?


 まずワシはこの本堂の邪気を払い、もしもに備えて結界を施すので、しばらく飯は要らん。なのでお前は台所に行って、適当にある物を食べてくれ。


 そして総代さんがやって来たら、お前が出迎えて本堂まで案内するのだ。

 ただし、ここが一番重要だが、絶対に総代さんが持って来た物に触ってはいけない。もしお前に受け渡そうとしたら、必ず断って、総代さん本人にここまで運ばせるのだ。──どうだ、解ったか?」



 俺が頷くと、じいちゃんはパンパンと平手を打ち鳴らし、



 じ「さあさあ、さっさと朝飯を食べちまえ。これは直感だが、今日は長くなりそうな気がする。だから総代さんにも、早く来るよう伝えてあるからな──」



 実際、総代さんがやって来たのは、俺が台所で朝食を取ったすぐ後だった。

 そして自分でも奇妙だと思うのだが、俺は相手が来るのが事前に解ってしまった。

 どこかから薄っすらと、肉の腐ったような臭いが漂ってきたからだ。


 俺が台所の窓から外を覗くと、境内の奥に人影があり、それがこちらに向かってゆっくり進んで来る。

 人影が近付けば近付くほど、臭いはどんどん酷さを増していった。


 遂にその人物が、メガネをかけた中年のおじさんだと判るくらいになると、俺は激しい臭気に堪えられず、さっき食べた物をほとんど吐いてしまった。

 場所が台所だったことが唯一の救いだ。


「御免下さーい。住職さーん、住職さーん!」

 お客さん用の玄関から、さっきのおじさんの声がする。

「何で飯なんか食えと言ったんだ!」と、じいちゃんを恨みながら俺は台所を出た。


「──あ、どうも。私、■■と申しますが──住職さんは?」

 総代さんの前に出ると、臭気は本当に鋭さを増し、まるで鼻自体が腐ったみたいだった。

 俺は失礼だと知りながら、出来る限り顔を手で覆い、こみ上げる吐き気を必死に堪えた。総代さんの腕に抱えられた、ちょっと大き目な風呂敷包み──それが臭いの中心なのは明らかだった。

「──住職は──本堂でお待ちです。どうぞ、お上がり下さい──」

 俺はようやく、そう言葉を絞り出した。


「そうですか──じゃあ、失礼します」

 たぶん、変な奴だと思われているのだろう、総代さんの態度もよそよそしい。

 けれども、そんなことに構っている状況じゃなかった。

 俺は出来るだけ総代さんと距離を取りながら、本堂へと進んでいった。


 臭いが急に消えたのは、総代さんと本堂に入ったときだった。

 見た感じ、堂内はついさっきとほとんど変わりはない。

 だがその空気は冷たく清んでいて、俺はここぞとばかりに何度も深呼吸をする。



 じ「おはようございます、■■さん。早朝に呼び付けて、すいませんでしたね」



 じいちゃんは本尊の前ではなく、外陣げじん(一般の礼拝席側)に座していて、そこに敷かれた座布団に、俺と総代さんを促した。



 総「おはようございます、ご住職。こちらこそ、無理を言って申し訳ありません」

 じ「本来なら、お茶とお菓子でおもてなしすべきですが、今日は事情が事情ですから、無作法をお許し願いたい」

 総「いえいえ。構いませんので。──あの、ところで、こちらに居られるお若い方は、一体?」

 じ「ああ、彼は私の孫です。今日は一緒に、儀式に同席致します。勿論、総代さんの広く口外したくない情報については、彼も秘密を守りますからご安心を」

 総「へえ! そうだったんですか! いや、別に情報漏洩なんて心配しないのですが、普段ご住職お一人のお寺に、突然若い人がいらっしゃったので。だから正直、最初は新しいお弟子さんか、あるいはか何かかと──」



 俺は、お化け扱いされたことに一瞬ムッとした。



 総「同席されるというと──つまり、アレですか? ご住職と同じでがおありになる、と?」

 じ「いえいえ。それはまだまだこれから。ちょっとした見鬼けんきの眼が朧に開いたという程度。彼の力が本物かどうかは、今後自然に判って行くこととなりましょう。さて、そろそろ本題に移るとしますかな──」



 総代さんが風呂敷包みを解いた。

 現れたのは、薄っすらと黒ずんだ古い木目の木箱だった。

 総代さんはそれを手渡ししようとしたが、じいちゃんは受け取らず、外陣の端に置いてある、香炉卓こうろたくの上へ置くよう指示した。

 そして、蓋は絶対に開けるな、とも付け加えた。



 総「──端的に言えば、中に入っているのは壺です。

 実は最近、我が家にあった古い蔵を解体したのですが、まずは一旦、何か値打ち物が眠ってないか調べようという話になって。これはその時に出てきた物なのです。


 初めのうち、壺はかなり古そうに思われましたし、面白い物が出てきたと喜んで自宅に置いていたのですが、そのうち妻が変なことを言い出して。『腐ったものの臭いがする』と云うのです。


 私はそんなものは感じませんから、気のせいだと思ってしばらく放っておいたのですが、その間に妻の様子がどんどんおかしくなってしまって──。

 今はご住職の勧めもあって、壺から引き離す意味でも病院に入院させ、状態はだいぶん落ち着いています。


 また、関係あるのかどうか解りませんが、蔵の解体中にもおかしな事がありました。

 解体は地元の土建業者に依頼したのですが、作業中の事故で、従業員の一人が重傷を負ったのです。ただ、詳しい経緯については、皆さん口をつぐまれて、はっきりしたことは聞けていません──」


 じ「いつからお宅の蔵にあったのか、わずかでも心当たりはありませんか?」

 総「──残念ながら。ただ、うちの家系は元々山梨県の出で、大正から昭和初期にかけ、こちらに移って来たと聞いております。蔵は私が生まれる前後に建て替えたと云いますから、仮にその頃からあったと考えると、五、六十年前から、でしょうか」

 じ「なるほど。最大では、貴方のご先々代まで遡る可能性もある、という訳だ」

 総「そうですね。──あの、ところで、物はお渡しした訳ですし、私はこのまま失礼しても──?」



 じいちゃんは一旦、大きな咳払いをした。そして、俺を見た。



 じ「──さて、蒼太よ。たった今総代さんはお帰りになると仰った。そこで、お前の所見を聞かせて欲しいのだ。果たして総代さんはこのまま、お引取り頂いて構わぬか否か? どうだ?」



 俺はそろそろ気が付き始めていた。

 なんとじいちゃんは、俺の能力を試そうとしているのだ!

「ちょっと補助」とか言っときながら、全く食えないジジイである!



 俺「うーん。どうだと言われても──。一体、どうすれば?」

 じ「襖の前を思い出せ。感じたままで良いのだ」

 俺「──この本堂に入って来てから、だいぶ判らなくなったけど、臭いのもとはやっぱり残ってる。で、それと同じものを、すごーく薄めたようなのが総代さんからも感じられる──って感じかな?」

 じ「大変結構。さて、総代さん。うちの見鬼がこの様に申しております。恐ろしい物からすぐにでも逃げ出したい気持ちはよく解りますが、それは後々、貴方に良からぬ事態を招くでしょう。しばらく残って、儀式に参加されませんか?」



 総代さんは無言のまま、こっくりと頷いた。

 じいちゃんは立ち上がり、「今後、箱は触らぬように」と言い残し、本尊の前に移ると、そこに座した。

 大き目のおりんが何度か打ち鳴らされ、堂内に響き渡ってゆく。

 そして、読経が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る