第29話

「あっ、ごめんね青葉君、立ち上がらせちゃって。」


僕が座ると先輩はまた優しく僕の左手に触れた。

そして自分の手に身に付けていたレースの手袋を外して、瓶のなかに入っていたものを手ですくう。

ほんのりと甘く漂う薬品の香り。

先輩は一生懸命に僕の左手に薬をすりこんでいく。

なぜだか痛みは一切感じない。いや、そもそも痛みなんてそうそう感じることがないか。


「青葉君.....?大丈夫?」


先輩は僕に優しく声をかける。気がつけばもうほとんど終わったようで、

僕の手にガーゼを巻きつけていた。


そこまでしてくれなくてもいいのに。

それでも先輩は優しいのだ。それでいてこの瞬間だけは先輩は僕のことだけを考えていてくれる。

自分のなかにどれ程までに醜い感情が宿っているかなんてわかっていた。でも、ほんの少しだけでもいいから、この酔うほどに甘く痺れる空間に浸っていたかったんだ。


「えっと、んぅ.......?」


先輩は頑張っている。なんでもこなせるように見えて色々と苦手なことが多い先輩。そんな先輩が大好き“だった”。

僕は先輩がなぜわざわざこんな職場で働いているかなんて知らない。

先輩は人魚が嫌いだし、たいしてここの給料がいいわけではないし。

あのクソ店長のせいで


「あっ、んぁっ、ごめんっ青葉君..........。」


先輩は怯えたような顔をして僕に対して謝っている。先輩の手は真っ赤。というより“紅く”染まっていた。

先輩の手からぽたぽたと垂れていく血液。

先輩が僕の左手を強く握りすぎてまた傷口が開いてしまったようだった。


「大丈夫ですよ~!」


先輩は本当に心から怯えているようだった。先輩の瞳はまた涙で満たされていった。


「でも、左手使えないと不便じゃ.........。」

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