第10話 5日目 - 朝




ジュリアンはゆっくりと目を開けた。


まだ朝の光が薄く、静けさが部屋を満たしていた。

胸の中に感じるエディスの体温に、自然と頬が緩む。彼は軽く腕を彼女の腰に回し、心地よい重みを感じながら、もう少しだけ彼女を引き寄せた。

その温かさに包まれ、気分は晴れやかで、目覚めとしては申し分ないものだった。



視線を部屋の壁に移すと、戦士のタペストリーが静かに掛かっているのが目に入った。


六枚のタペストリーが寝室を囲むように飾られており、その中でも特に一枚、戦士が荒れ狂う戦場で冷静に戦略を練る姿が描かれたものが、彼の目を引いた。


その戦士は、彼が憧れ尊敬する存在であり、強大な敵に果敢に立ち向かい、数々の困難な状況を切り抜けたことで知られていた。

ジュリアンもまた、同じように自分の民を守り、導く存在でありたいと願ってきた。

彼は指導者として、時には冷酷な決断を迫られることもあったが、戦士のように毅然とした態度で立ち向かうことが自分の務めだと信じていた。



しかし、戦士のタペストリーを見るたびに、ジュリアンは単なる敬意だけでなく、ある種の危機感も抱いていた。

その戦士は、数々の勝利を収めたものの、最終的には敗北し、自らの野心と自信が災いして破滅へと追い込まれた。


その姿は、ジュリアンにとって憧れと同時に、危険な警告でもあった。


あの戦士は最後に自らの野心によって破滅した――それはジュリアンにとって単なる過去の話ではなく、常に頭の片隅にこびりついて離れない恐れでもあった。



「自分もいつか、同じように破滅してしまうかもしれない…」ジュリアンはふと、そんな不安に襲われた。

国のリーダーとしての立場は、冷静な判断を要求されるが、心の奥底では、自分が常に正しい決断をしているのか疑問に思うこともあった。

戦士のように、一瞬の誤りで全てを失う可能性が常に付きまとう。



タペストリーを選んで寝室に飾ったのは、単にその戦士を敬ってのことではなかった。


彼にとって、その絵は朝に目覚めるたび、自らの驕りを戒め、正しい道から逸れないための無言の指導者だった。

戦士のように、強さと冷静さを持ちつつも、彼の最後を思い出すたびに、ジュリアンは己の限界や傲慢さを警戒せざるを得なかったのだ。



でも、それだけではない。

このタペストリーをここに置いた理由には、彼の中でそれ以上に大切な意味があった。

腕の中にいる妻、エディスが共に目覚めるこの寝室だからこそ、この戦士の姿は意味を持つ。

エディスが傍にいれば、自分は過度な野心に溺れず、常に彼女を軸にした行動ができる。

戦士と妻、その二つの存在がジュリアンにとってバランスを保つ鍵であり、決して自らを滅ぼさないための拠り所だった。



エディスはまだ深い眠りの中だ。

昨夜、珍しく甘えるようにすがってきた彼女は、可愛らしくて堪らず、自制するのが難しかった。

普段は見せないその一面に、どうしようもなく惹かれてしまったのだろう。

それでも、彼女は疲れ切ったのか、朝になっても起きる気配はない。


無邪気な表情で穏やかな寝息を立てる彼女を見つめるたびに、僕がどれほど彼女に支えられているか、改めて実感させられる。

だが、昨夜の情熱に満たされたはずの心は、次第にさらなる充足を求めるように、彼女の体に自然と引き寄せられていく。


ほんの少しの隙間すらも惜しくなり、眠る彼女をさらに強く抱き寄せてしまった。


「彼女が隣にいてくれる限り、自分は道を誤らない…」そう信じたい。


しかし、心のどこかで不安は消えなかった。



もし、エディスがいなくなったら?

彼女が自分を支える存在ではなくなったら?

彼女に嫌われ、信頼を失ったら?



そう考えるだけで、胸の奥が冷たく締めつけられるような感覚に襲われた。

エディスが、ジュリアンにとって単なる妻ではなく、自らの弱さを補ってくれる拠り所であることは年々増していった。

最初は、自分の評価はエディスの評価にもなることを意識していた。エディスに恥じない立ち振舞を意識し、守るべき存在として見ていた。


だが今は違う。


エディスの存在がなければ、自分は崩れてしまうかもしれないという恐れが、日ごとに強くなっていた。



エディスに対するこの依存心を彼女に知られてしまったら、どうなるのだろう?


自分が、国を導くリーダーとしての冷静さを失い、彼女に頼りすぎている姿を見せることなど、許されない気がした。

だからこそ、彼女の前では常に余裕のある振る舞いをし、強い夫としての姿を見せなければならない。

だが、その強さはいつしか仮面となり、自分自身を守るためのものに変わっていった。



「このままでいられるのだろうか?」ジュリアンは心の中で自問した。


戦士の教訓を胸に刻みつつ、エディスに依存しすぎている自分をどうにか隠し続けていたが、それがいつか彼女に気づかれてしまう日が来るのではないか――そんな漠然とした不安が、彼の心を常に苛んでいた。

この気持ちが大きくなるたびに、エディスへの独占欲が強くなるのは自覚していた。

本人に知られたら、自分はどうなるか、分からない。



彼は、そっとエディスを抱きしめながら、戦士のタペストリーに再び目をやった。

戦士が最後に辿った破滅の道は、自分も辿ってしまうかもしれない…エディスへの依存心が、いつしか自分をさらに危険な道へと導いてしまうかもしれない――その不安を、彼は決して拭い去ることができなかった。


自分の破滅への一歩はエディスがいなくなることへの暗示のように思えた。


そう考えるたびに、ジュリアンは恐れを感じた。




戦士が激しい戦いを生き抜くために必要だったのは、剣だけではなく、心の拠り所だったのだ。

ジュリアンにとって、その拠り所は妻であり、エディスがいるからこそ、彼は戦士のように自滅せずに済むのだ。



ジュリアンはエディスを抱きしめながら、再びタペストリーに目をやった。戦士の姿が、彼の心に重くのしかかる。

「自分も、あの戦士のように破滅してしまうのか…」その不安が、胸の奥に残る。


だが、エディスがいる限り、彼はその道を歩まない。彼女が、冷静さと強さを保つための唯一の拠り所だった。


ジュリアンは目を閉じ、再び彼女を強く抱き寄せた。

「エディスがいる限り、自分は過ちを犯さない…」

そう誓うことで、ほんの一瞬、不安が和らぐような気がした。

だが、その影は、依然として彼の心の奥に潜んでいた。

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