第9話 4日目 - 夜





静寂の夜が部屋を包み込む中、エディスはベッドの縁に座り、目の前のタペストリーに視線を注いでいた。


そこには、幾度も敗北を経験しながらも再び立ち上がり戦う古の英雄の姿が描かれていた。

どれだけ打ちのめされても、再び剣を握り立ち上がるその姿は、まるで彼女自身の心境を映し出すかのようだった。



ジュリアンが静かにその隣に腰を下ろし、彼女の表情を窺うように尋ねた。

「考え事?」


エディスは少し目を伏せ、再びタペストリーに視線を戻す。

「英雄って…何度失敗しても立ち上がるのね。だけど、どれほどの迷いや苦しみを抱えていたんだろうって」



彼女の言葉の裏には、カタリナのことが影を落としていた。

カタリナはエディスの出身国に留学していた――医学が高度に発展した国。

そこでは「王家の病」と呼ばれる遺伝性疾患が脅威となっていたため、国として医療に力を注いできた。

カタリナは、その地で学んだ医学知識を基にして、エディスにも遺伝子検査を勧めてきたのだ。


だが、その検査が何をもたらすのか、エディスは恐れていた。

もし、結果がジュリアンにとって重大な意味を持つとすれば、この生活が破綻してしまうのではないか。

エディスは心の中でその不安を募らせていた。



「失敗から学ぶ英雄も、人間だよ」とジュリアンは柔らかな声で微笑んだ。「立ち上がるには、強さだけじゃなく、迷いや恐れも抱えたまま前に進む力が必要だからね」



エディスは微かに笑みを返したが、心の奥では葛藤が渦巻いていた。

カタリナの提案が善意から来ているのか、それとも何か別の意図があるのか――それを見極めることができない。

エディスの過去、そして隠された目的が、この遺伝子検査の結果によって暴かれるかもしれないという恐怖もあった。


エディス自身、かつて自分の国から留学してきた理由は、表向きのものではなかった。

彼女は実は、王家に送り込まれた一族の秘密の計画の一部だった。

エディスの一族は、その「王家の病」の遺伝子を広めることで、他国の王族の血統を支配しようとしていた。

エディスは内心異論があったが、その一端を担わされ、ジュリアンの国に送り込まれたのだ。


しかし、そのことを今さら告げることはできなかった。



「でも…私は英雄じゃないわ」エディスは静かに呟いた。「失敗しても、あんな風に立ち上がれる自信なんてない」


ジュリアンはそっと彼女の肩に手を置き、優しく彼女の目を覗き込んだ。「君は自分で思うより、ずっと強いよ、エディス。どんな時でもね」


その言葉に、エディスは少しだけ救われるような気持ちになったが、それでも胸の内の不安は消えなかった。



カタリナには、自分のタイミングでジュリアンに打ち明けると言ったが、そのつもりはなかった。

もし、遺伝子検査の結果がジュリアンの知るところとなれば、彼女の過去が明るみに出てしまう。

カタリナがどれほど天才的な着眼点を持っていても、この結果が彼らの未来に影響を与えるのではないかという恐怖が、彼女を苛んでいた。


今までジュリアンとカタリナの仲を絵画のように愛でていた気持ちが萎んでいき、現実のものとなり、エディスを追い詰めていくようだった。



「英雄の物語のように、私も何かを乗り越えなければならないのかしら」とエディスはタペストリーを見つめたまま呟いた。


ジュリアンは静かに頷き、彼女の手をそっと包み込みながら、低く甘い声で囁いた。「君がどんな道を選んでも、僕はそれを支えるよ。だけど、エディス、君は自分で思う以上に強い。僕は、それを確信しているんだ」


エディスは彼の言葉に心が少し軽くなるのを感じたが、彼に話すことのできない秘密を抱え続ける苦しさは、消えることはなかった。

だが、ジュリアンが自分を信じ、支えてくれようとすることに感謝していた。


「ありがとう」彼女は微笑みながら、指先でそっと彼の手を撫でた。


そして、彼女は微笑みながらも、心の奥でまだ迷い続けていた。


英雄の物語のように立ち上がることができるのか、それとも彼に打ち明けることなく、このまま秘密を抱え続けるのか――その決断は、彼女自身に委ねられていた。




エディスはジュリアンに寄りかかり、少し緊張した表情でそっと囁いた。「今日は…あなたを一番近くに感じたい…」


ジュリアンはその言葉に穏やかに微笑み、エディスをやさしく抱き寄せた。「もちろんだよ、僕のエディス」




エディスは夫の温もりに身をゆだね、その瞬間だけは、未来への不安を忘れようとした。





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