第11話 5日目 – エディスの返事
エディスは調合室にひっそりと飾られた一枚の絵、ヴァニタスを見つめていた。
暗い背景に浮かび上がる、砂時計、咲き誇る花々と、しおれた花々。すべてが「無常」を語り、人生の儚さを象徴している。
ここはエディスが唯一、他人の目を気にせずに自分の好みを反映させられる場所だった。
どの部屋にもジュリアンや使用人たちの視線が潜んでいるように感じてしまうが、この調合室だけは別だった。
自らの生活には、不満はほとんどなかった。
夫は温厚で、城館は美しく、使用人たちも申し分のない働きをしてくれる。
多くの女性が羨むような生活を送っているはずだと、自分でも理解していた。
だが、それでも心の隅には、重い影のような感情が横たわっていた。
窓からは、庭園の木々が美しく揺れるのが見える。ジュリアンはしばしば庭の手入れを楽しみ、熱心だった。
彼が新しい彫像や樹木を庭に加えた時、「どんな意味を込めたのだろう?」と彼女はしばしば考えることがあった。
彼の明るい笑顔が浮かび、彼女はくすりと笑うこともあったが、そうして幸福感を感じる度に、すぐに胸の奥にぽっかりと空いた穴を感じる。
それは自分が彼に秘密を抱えていることへの空虚感だった。
夫との時間が積み重なれば積み重なるほど、彼の考えを推し量ろうとするたび、二人の中で愛よりも重要な「信頼」への後ろめたさが増していくのを感じている。
彼もまた、何も言わないが同じことを感じているのだろうか? それとも彼は庭園の美や芸術の中に心を満たしているのかしら。ふと、彼が彫像の意味を語っていた時の柔らかな声が耳に蘇る。
彼は決してその種の虚しさを口にしなかったが、エディスは夫の視線の奥に、何かしらの共鳴を感じたことがあった。
エディスに秘密があることをジュリアンが許容していることは、エディス自身気付いていた。
その秘密を知ったときのジュリアンの反応を考えると、ジュリアンはどう思うだろうか?裏切りだと思うだろうか?そう思うとエディスは酷く臆病になる。
エディスは画の中の砂時計に目をやった。
時間は常に流れ続け、止まることはない。
「この絵、お好きですか?」
ふと聞こえた声に、エディスは驚き振り返った。いつの間にかカタリナがそこに立っていた。
「……ええ、なんだか心が落ち着くの。儚さの中にも美しさがあって、命の終わりと始まりが同時に感じられる」
カタリナは彼女の言葉に同意して頷き、会話は一段落を迎えた。
その静寂の中、エディスはふと机の上に置かれた袋に目をやった。彼女は無意識にその袋を開け、手のひらに白い錠剤を一粒載せ、水で流し込む。いつも感じる苦みが、喉に広がるが、慣れたものだ。
カタリナはその動作をじっと見つめ、ふと声をかけた。「それ、前にも見たことがあります。よく飲んでいますが、何かの薬ですか?」
エディスは微笑みながら「ただの胃薬よ‥って皆には言ってるけど、実は避妊薬なの。処方してもらうより自分でつくっているのよ」
カタリナはエディスの様子から、小さな疲れを感じ取った。エディスがどれほど周囲に気を使いながら、その秘密を守っているかと思うと、胸が締め付けられた。
そして同時に「この調合室はジュリアン殿下の独占欲だけではなかったのね…」と内心思った。
カタリナは微笑みながらまた絵を一瞥し、ふとため息をついた。
「命の終わりと始まり、ですね。人は何をしても、いつかはこの世を去る。それを知っていながらも、抗おうとする。まるで無意味な戦いみたいですね」
エディスは静かに頷いた。カタリナの言葉が、どこか自分の心境と重なっていた。
「でも、それでも人は抗うべきです。命は短くても、その間に何を成すかが重要ですから」
「何を成すか……」
「そうです。だから、命が短いとわかっていても、その時間を無駄にしてはいけないと思います。エディス様が何かを守りたいなら、最善を尽くすべきですよ」
カタリナの視線が真っ直ぐエディスに向けられた。彼女の冷静な瞳が、エディスの心の奥にある葛藤を見透かしているようだった。
「……私、まだ決められないの」エディスは視線を外しながらつぶやいた。
カタリナは黙って頷いた。
「だからこそ、私が今ここにいます。エディス様は遺伝子検査を受けるべきです。もちろん、ジュリアン殿下には内緒で」
その言葉に、エディスの胸がざわめいた。
ジュリアンに隠し事をすることに後ろめたさを感じていたが、同時に自分の運命に抗いたいという思いも強かった。
「ジュリアンには……まだ話していないの」
「それでいいんです。殿下に心配をかけたくないですよね?大事なことは、エディス様自身がどうしたいかです。自分の未来のために、今決断を下す時が来たんです」
エディスは絵に再び視線を戻した。骸骨が微笑んでいるようにも見えた。命の儚さを知りつつ、それでも前に進む決意が少しずつ固まっていく。
「……わかったわ。検査を受ける」
「よかった」カタリナは静かに微笑んだ。「これで、エディス様の未来が少しでも明るくなれば、私も嬉しいです」
エディスはカタリナの言葉に感謝しながらも、心の奥に一抹の不安を感じていた。
しかし、彼女は自分のため、そしてジュリアンのためにも、行動を起こすべきだと決意したのだった。
エディスはカタリナが帰った後も、ヴァニタスの絵に近づいた。
骸骨の眼窩の空洞が、まるで彼女を見透かすように冷たく輝いている。
骸骨を見つめ続けるうちに「本当のことを知るのが恐いか?」そんなふうに言われたような錯覚に陥る。
自分の人生は、この絵に描かれたモチーフのように、一度きりの輝きを放ち、やがて朽ちていく運命にあるのだろうか。
それでも、彼女は心のどこかで、何かを求めていた。
虚しさを打ち破る何か、もっと本質的で、深い繋がりを。それは愛なのか、自由なのか、エディス自身もはっきりとは分からない。
しかし、この豪奢な屋敷に囲まれた生活が、真実の喜びや満足感を与えてくれるものではないことは確信していた。
窓の外では夕陽がゆっくりと沈み、長い影が部屋の中に伸びていた。
彼女は、ヴァニタスの絵に背を向け、静かに窓へと歩み寄った。今度はその夕陽を眺める。
沈みゆく太陽も、絵と同じように一時的な存在に過ぎない。しかし、その一瞬の輝きには、何かを感じさせるものがあった。
もしかしたら、虚しさの中にも、美しさや意味を見出せる瞬間があるのかもしれない。そう思いながら、彼女は薄く微笑んだ。
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