第6話 初日の余韻と2日目
エディスは、調合室でのカタリナとの会話を思い返していた。
予想外に和やかで、楽しい時間が過ごせたことに少し驚きつつも、心地よい余韻が残っていた。
研究に関して熱心に話すカタリナの姿は、天才少女と言われていた頃と変わらないだろう。
エディスも自然と会話に引き込まれ、仕事の時間があっという間に過ぎてしまった。
その晩、ジュリアンが帰宅すると、すぐに彼の顔に浮かんだのは少しの不安と警戒だった。
「どうだった?」彼は気にかけていたことがすぐに口をついて出た。「…カタリナが、何か余計なことを言わなかったか?」
エディスは彼の様子を見て、思わず小さく笑った。「大丈夫よ、あなたが心配するほどじゃなかったわ。むしろ、楽しい時間を過ごしたくらい」
ジュリアンは少しホッとした様子を見せたが、どこか不満そうに眉をひそめた。「本当に?彼女が何か、嫌味を言ってきたりはしなかった?」
「まさか、そんなことは一度もなかったわ」エディスはさらりと流しながら言った。
彼がいかにカタリナの言葉に神経を尖らせているかは分かっていたが、カタリナはむしろ昔よりも落ち着いていて、楽観的な空気すら漂っていた。
「明日もまた会う予定だから、心配しないで」エディスは微笑んでそう付け加えたが、ジュリアンの眉は完全にはほぐれなかった。
「うん…」と返事をしたものの、彼はまだどこか釈然としない様子で、何か考え込んでいるようだった。
翌日、カタリナが再び自宅の調合室を訪れた時も、昨日の余韻が二人の間に漂っていた。カタリナが手に取る試薬や草花に、エディスも興味を持ちながら解説を加える。
「昨日の研究の続き、さっそく始めたいと思います」カタリナは明るい笑みを浮かべ、エディスに向かって礼をした。
「ええ、どうぞ」エディスも軽く頷いて彼女を招き入れる。昨日のカタリナが見せた熱心な姿が再び現れることを期待しつつ。
しばらくの間、二人はお互いの専門分野について真剣に議論を交わした。エディスは薬草の調合に関する知識を、カタリナは遺伝子の研究成果を、丁寧に交換し合う。
どちらもその分野におけるエキスパートとして、言葉のやり取りは流れるようにスムーズだった。
「エディス様。昔、一度ふたりでお会いしたことを覚えてますか?」カタリナが突然、柔らかい声で口を開いた。
エディスは一瞬、驚いた表情を浮かべた。確かに、一度だけ――それは、10年前の学生時代のことだった。
「ええ、覚えてるわ。あれは卒業式パーティーの前の夜に、あなたの部屋を訪ねた時のことね」エディスが静かに応じた。
カタリナは頷き、懐かしそうに笑みを浮かべた。「あの時、エディス様が私に仰ったこと、今でも忘れられません。『とびっきりのおしゃれをして、決して涙を流してはだめ』と。あの言葉がなければ、私はあの日、大衆の前であんなに堂々と振る舞えなかったと思います」
エディスはその言葉に少しだけ肩をすくめ、笑った。「あなたがその場をうまく乗り越えられたのは、あなた自身の強さよ。私はただ、ちょっとアドバイスをしただけ」
「いいえ!」カタリナは断言するように首を振った。「あの言葉が、私にとってどれほど大きな支えになったか、エディス様には分からないかもしれません。でも私、本当に感謝しているんです」
エディスは彼女の真摯な言葉に軽く頷いたが、特別なことをしたとは思っていなかった。王族としての振る舞いは当然のことだったからだ。それに、カタリナが毅然とした態度の方がお互いにとって悪いことではなかった。
それを特別だと感じるカタリナの方が、エディスにとっては少し不思議だった。
「今思えば、あの頃の私にとって、殿下との婚約破棄は将来を見据えた正しい選択でした。そのおかげで、こうしてエディス様とまた再会できたのですから、感慨深いものです」カタリナの目は少し遠くを見つめるように、当時を懐かしむようだった。
エディスもまた、10年前の記憶を思い返していた。
自分がかつて助言を与えた少女が、今ではこのように大きな成果をあげる立派な研究者になったことに、少しの誇りと安堵を感じた。
「でも、今はエディス様のことを独占しているジュリアン殿下が、ちょっとズルいと思いますけどね」カタリナは明るい声でそう言いながら、冗談めかした笑顔を見せた。
エディスはその言葉に一瞬驚いたものの、軽く笑って首をかしげた。「そう感じるのは、あなたらしいわ」
カタリナは朗らかに笑い、エディスに向かって深々と礼をした。「今日もありがとうございました、エディス様。また明日、楽しみにしています」
「ええ、私も楽しみにしているわ」エディスは穏やかな笑顔で応じ、カタリナを見送った。
エディスは調合室の窓辺に立ち、カタリナが帰路につく姿を見送っていた。
彼女の心には、10年前の婚約破棄の背後にあった真相を知った時の記憶がよみがえっていた。
それは、とある式典でカタリナの養母に話しかけられたことで始まった。
「エディス様、お時間よろしいでしょうか?」と声をかけられたとき、エディスは動揺を隠せなかった。
カタリナの養子先は貴族派であまり王家と交流は持たないことや、養子の婚約破棄した関係者に話しかけることなどが原因だ。
けれども、その後、彼女が耳にしたのは、想像を超える背景だった。
いえね、エディス様には私たちとても感謝しておりますのよ。
カタリナは、ジュリアン殿下と婚約されてたでしょう?こちらも養子先として対応する前に発表するものだから、困っていたのよ。
特にカタリナの実母がどうしてもその結婚に反対していてね。
殿下と婚約したら王太子妃になるべく今まで通りに研究に集中出来ないでしょう?
実母は、娘にそんな重荷を負わせたくないという一心から、私に、カタリナに婚約を解消するよう説得を頼まれたのよ。
私もね、カタリナには王家ではなく、自分自身の能力を発揮して研究者として成功してほしいと願っていたのよ。
だからね、私たちはカタリナの母として、婚約破棄に向けた準備を進めることにしたの。
婚約発表した後も、何度か私は寄宿学校の寮でカタリナと面会させてもらったの。
1時間近く説得した日もあったわ。
「本当に殿下と一緒になりたいの?」と聞くと、カタリナは迷うことなく「なりたい」と答えるんだけどね、
「あなたが王太子妃になることは、あなた自身の人生を縛り付けてしまうわ。
あなたは王太子妃と研究を両立出来ると思っているかもしれないけど、不可能よ。
あなたはもっと多くのことを成し遂げられる人物なのよ。研究者としての未来もある。
そして、お母さんを支えるという責任も大きいでしょ。あなたが殿下と一緒になったら誰がお母さん支えるの?あなたたち、母一人、子一人でしょう?
申し訳ないけど、私たちは研究者としてカタリナに投資しているのであって、王太子妃になればお母さんの援助もなくなるのよ?」
私はそう言って説得したのね?
今思うと厳しく言い過ぎたけど、時間がなくて、言葉を選んで説得する余裕はなかったのよ。
カタリナは涙を流していたけど、しょうがなかったわ。
誰も彼女の側に立って支えてくれる大人はいなかったかもしれない。
それでも私は大事なことだから続けたのよ。
「もう一度、自分の人生についてよく考え直して。ただ好きという気持ちだけではなく、あなたは自分自身の道を選んで進むべき人間なの」
そう言って説得し続けたわ。
カタリナが元は平民で、貴族の養子になったことは知っていたが、詳しい内情を知ったのは初めてだった。
婚約破棄の発表後も、カタリナは何度かエディスへの感謝の言葉を口にしていたという。
養母はそのことを伝えるため、あの時の真相を打ち明けた。
婚約破棄の裏にあった実母と養母の思い、その経緯をすべて語り尽くしたのだ。
養母が当時の会話を振り返り、エディスにこう言った。「カタリナは本当に感謝していたわ。あなたが彼女にとって、どれだけ大きな存在だったか。彼女にとって、あなたは支えだったのよ」と。
「だから、私もエディス様にはとても感謝しておりますのよ。困ったことがあれば、是非助けになることを忘れないでほしいわ」カタリナの義母はそれを伝えたかったのだろう。
それから、季節の折に挨拶状を送るなど慎ましい交流をするようになった。
その話を聞いた時、エディスは胸の奥に深い感慨が湧き上がってきた。
あの時のカタリナの涙、彼女が背負っていたものの重さ。
そして、婚約破棄がエディス自身にもたらした影響がどれほど大きかったのか、その話を聞いてようやく理解できた。
窓の外で風が吹き、木々を揺らしていた。
エディスは、その風にカタリナの感謝が心に染み渡るようだった。
ジュリアンとカタリナのあの純愛が、今では一層輝かしいものに思えてならなかった。
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