第3話 タペストリー
朝の光がカーテンの隙間から静かに差し込み、エディスは目を覚ました。
だが、動こうとしても体はまるで捕らえられているかのように動かせない。
夫の腕が彼女の腰に回り、背中には彼の胸がしっかりと押し当てられている。
耳元で規則的に響く寝息と、彼の温もりが彼女を包み込んでいた。
後ろから抱きしめるのは彼のいつもの癖だった。
眠っている間でも、無意識に彼女を守るように抱きしめてくる。
しかし今朝は特に強く、逃げ場もないほどしっかりと彼の腕に包まれていた。
「またカタリナ様の話をしたからかな…」と、彼女は心の中で軽く笑った。
だが、笑みの裏には苦い思いが広がる。
彼が彼女を抱きしめる理由が本当に愛情ではなく、ただその場を取り繕うためであることを理解していた。
その思いが、エディスを遠い昔の記憶へと引き戻した。
――まだ私が王太子妃となったばかりの頃のこと。
ジュリアンと共に宮廷の広間に立ち、仲睦まじい夫婦を演じる日々が続いていた。
あの頃の私たちにとって、それは必要なことだった。
軽薄だと見られていた彼のイメージを払拭し、この結婚がいかに円滑に機能しているかを周囲に示すための舞台だった。
彼がそっと私の手を取ったとき、彼の瞳に浮かぶ穏やかな光を見て、私は冷静に考えていた――これは私だけでなく、彼自身のためでもあるのだ、と。
周囲の目を欺くだけでなく、必要ならば私自身も騙せば、完璧な夫婦像が完成するだろう。
演技の対象は次第に、宮廷の貴族たちだけでなく、私自身へと広がっていったのだ。
ジュリアンが柔らかく微笑みながら私に耳打ちしたとき、まるで秘密を共有しているかのような親密さに胸がざわついたことを、今でも覚えている。
けれども、私はそれをすぐに打ち消した。
どうせ私が彼の隣にいる理由など、彼にとっては些細なことだろう――もし隣にいるのが私でなく、カタリナ様であれば、彼の態度も本物のものだったのだろうけれど。
『どうせ、相手がカタリナ様でなければ誰でもジュリアンにとっては同じなのだろう』
そう心の中で呟くたび、自分がどれだけ惨めか思い知らされる。
それでも、これが私に課された役割なのだと思うほかなかった。
あの頃の私は、ジュリアンの笑顔が本物に見えるたびに、どれだけ自分を騙すことに長けているか試されているような気がしてならなかった。
あの演技が成功するほど、彼の隣で微笑む自分自身を、遠くから眺めているような気がしていたのだ。
思い返せば、あの舞台での彼の演技は周囲に向けられたものであるはずだった。
だが次第にそれは変わり、演技の対象は私自身へと広がり、今や自分ですら欺かれているように思えた。
ため息をつきながら、エディスは視線を寝室の壁に向けた。
そこには、古代の戦略家の人生が描かれた6枚のタペストリーがかけられていた。
幼少期から数々の戦い、そして最後の勝利まで、その生涯の瞬間が緻密に織り込まれている。
このタペストリーを選んだのはジュリアンだった。
彼の美術品への深い愛着と、調度品を選ぶ際の独特の美学は、宮廷内でも広く知られている。
一枚一枚に意味が込められているのだろうが、そのすべてをエディスが理解するのは難しかった。
ただ、それでも寝室にこのような物語を選んだ理由を彼女なりに想像することはあった。
特に彼女の目を引くのは、敵軍に包囲されながらも逆転を図る場面を描いた一枚だ。
戦略家の鋭い眼差しが印象的で、その姿はどこかジュリアンに重なるようにも思える。
『このタペストリーに、彼はどんな思いを託したのだろうか…?』
ぼんやりとそう考えながら、エディスは無意識にタペストリーの場面と、ふたりが築いてきた“演技”の日々を重ね合わせていた。
勝利を得るためには冷徹な計算が必要であるかのように、ジュリアンもまた、あらゆる局面を攻略するように考えているのではないか、と。
けれども、そう思った次の瞬間、彼女は微かな笑みを浮かべた。
「寝起きにそんなことを考えるなんて…」
まだ完全に覚めきらない頭で、彼女は自らの妄想に苦笑いを浮かべた。
再び目を閉じようとしたそのとき、彼女の体が再び夫の腕の中に引き寄せられるのを感じた。
ジュリアンの温もりと耳元で響く規則正しい寝息が、彼女を優しく包み込む。
まるで、「まだ起きるな」とでも言っているかのように、腕の力がわずかに強まった。
タペストリーの英雄の冷徹さとは違う、この一瞬の温もり。
エディスはその感覚に心を委ねるように目を閉じた。『これだけが真実だと思いたい』
その考えが心をよぎったことを認めるのは、どこか悔しく、同時にどこか心地よかった。
普段の彼女なら理性がすぐにそれを打ち消していただろうが、今はほんの少しだけその感覚に浸りたいと思った。
エディスは再びタペストリーに描かれた英雄の物語を心の中で辿りながら、穏やかな眠りに落ちていった。
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