第2話 夫婦の会話



その夜、私はソファに深く腰掛け、タブロイド紙を無意識に手でなぞっていた。

すでに何度も目を通した記事、日中の暇な時間に同じ箇所を何度も繰り返し読んでは、そのたびにため息をついていた。

紙面には例の婚約破棄の話が載っており、これ以上目新しい情報などないことはわかっていた。


軽くため息をつきながら、私は微笑みを浮かべた。

こんな話、いつまでも追いかける記者のしつこさには呆れつつも、どこか心の奥でこの話題がくすぐるものがあるのも事実だった。






玄関の扉が静かに開く音が聞こえ、彼が帰宅したことがわかった。


ジュリアンが帰宅した音を意識しつつ、私は視線を紙面から外さず、ちらりと彼の方を盗み見るに留めた。

彼が足音も静かに、私の隣のソファに腰掛けたのを感じると、いつも通りの穏やかな微笑みを向けてきた。


「おかえりなさい、ジュリアン。今日もお疲れさま」

私の声には、いつもより少しだけ含みを持たせた。


表向きは何でもない挨拶のように聞こえるが、彼にはすぐに伝わるだろう。

私がこういう言い方をする時は、何かを企んでいるのだと。


ジュリアンは一瞬だけ私を探るように見つめ、それからわずかに笑みを浮かべた。「ただいま、エディス。今日は何かあったのか?」

その声は、わざと気楽に振る舞っているものだったが、その奥にかすかな緊張感を感じ取ることができた。


「これよ、また見つけちゃった」

私はタブロイド紙を折りたたみ、彼の方に差し出した。

ジュリアンはそれを一瞥し、記事の見出しに眉をひそめたが、すぐに何かを悟ったようだった。


「また婚約破棄の話か」彼は落ち着いた声で言ったが、その裏にある不安を私は感じ取っていた。


「どうしても目に入っちゃうのよ」

軽い調子で言いながらも、私は彼の反応をじっと観察していた。

ジュリアンは普段、何を聞かれても冷静に対応するのに、この話題に限ってはいつもどこかぎこちなくなる。

それが妙に面白くて、私は時折からかいたくなるのだ。


「カタリナのこと、本当に大事だったの?」

私は少しイタズラっぽく微笑みながら、いつも通りの軽い質問を投げかけた。

何度も同じ質問を繰り返してきたが、ジュリアンの答えはいつも同じだ。

彼は、カタリナに対してはもう終わったことだ。今は特別な感情を持っていない、というのが彼の決まり文句だった。


「カタリナには感謝している部分はあるけど、君との生活が僕のすべてだよ」

彼は変わらぬ笑顔で答えたが、その言葉にはどこか形式的な響きがあった。

彼が私を愛していると何度も口にするものの、私はその言葉を本当に信じているわけではなかった。




しかし、その夜はいつもとは少し違う気分だった。


カタリナが近々帰国するからだ。

その時は公式的に私との会合も含まれている。

私は、カタリナに会う前に彼の本音を確かめたいという衝動に駆られた。


そして、普段ならからかうだけで済ませるところを、今日は一歩踏み込んで聞いてみたくなった。


「もし本当にカタリナのことをそんなに気にかけていたなら、再婚するのも悪くないんじゃない?私のことは気にしないで」

私は少し挑発するような口調で言ったが、その瞬間、自分でも意外なほどに強く聞きたいという気持ちが湧き上がってきた。


ジュリアンは驚いたように一瞬息を呑んだが、すぐに落ち着きを取り戻し、私の手を優しく握り返してきた。

彼はいつもと同じ柔らかな表情で、しかし真剣な瞳を向けてきた。


「エディス、確かに僕たちの結婚は最初は政略結婚だったかもしれない。でも、君と一緒に過ごすうちに、僕は本当に君を愛していることに気づいたんだよ。君との生活が僕にとっての幸せなんだ」


彼の言葉に、私は一瞬ほっとしたものの、どこか完全に信じ切れない自分がいた。

彼の優しさが本当に私へのものなのか、それともカタリナにできなかったことを埋め合わせようとしているのではないかという疑念が、頭の片隅に残っていた。


「嬉しい。私も、この生活に不満はないわ」と笑いながらも、彼の真剣な顔を直視できず、視線を少し外した。「でも無理に続ける必要もないし、あなたが望むなら、私はあなたの意志を尊重するわ」そう言いながら、無意識に自分の髪を指で弄んでいた。

私はカタリナの代用品でしかないのかもしれない。


「だから、もし気持ちが変わったら教えてね」

自分でも少し胸が痛むのを感じたが、それでも私はその言葉を口にせずにはいられなかった。


私はいつだって臆病だった。


彼の本心を知りたいと思う一方で、それを本気で聞く勇気がなかった。



それでも、ジュリアンは私の手をしっかりと握り、真っ直ぐな瞳で私を見つめ続けた。


「エディス、僕はこの結婚を続けたい。君がどう思っていようと、君を大切に思っているんだ。もし何か心配なことがあるなら、いつでも話してほしい。直接言いにくければ、手紙でもいいよ」


「手紙でもいいよ」という彼の言葉に、私は思わず微笑みそうになった。彼の几帳面さがここまでとは。

しかし、その几帳面さが、心の奥でほんの少しだけ私の不安を和らげたのも事実だった。


「そう言うなら、しばらくはあなたの言うことを信じてみるわ」

私は何でもないことのようにそう答えたが、内心では、彼の言葉をどこまで信じて良いのかまだわからなかった。それでも、彼の真剣な態度に少しだけ安堵した自分がいた。


私たちの間に漂っていた小さな緊張は少し和らいだ気がしたが、心の奥底に渦巻く疑念は、今も静かに形をなさず漂っていた。

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