遍在幻術師の罠

  諸君しょくん遍在幻術師へんざいげんじゅつしという存在をご存知であろうか。毎夜、私たちの枕辺まくらべに姿も現さずに立ち、呪詛じゅそを吹き込む存在である。日常にあまねく存在し、在りもしない前提条件を建設してゆく存在である。真っ黒なスウツを着た、帽子を被った、顔の無い存在である。諸君が仮にこの名を聞いたことがないとしても、諸君は来る日も来る日も自覚無く、彼らと対峙たいじしているのだ。彼らは今、巧妙こうみょうな幻術を用いて、我らを隷属れいぞくさせようと働きかけているのである。彼らの計画が成就じょうじゅすれば、私たちは本当の世界から取り残され、恐るべき幻想のおりへと収監されるだろう。とはいえ、それにあらがすべを、諸君はまだ完全に忘れてはいない。簡単なことである。諸君が、諸君として在ればよいのだ。己の信条に従っていればよいのだ。しかし、なんだ、そんなことかと楽観してはいけない。遍在幻術師が本当に恐ろしいのは、諸君が戦闘態勢を取っていないときである。休息や睡眠の度にも、彼らはやってくる。注意しろ。私は先日、彼らの罠にようやく気付いたのである。こんな具合だ。


 深夜。私は喉の渇きに、目を覚ました。カルキ臭い水道水を飲み、布団へと入った時、ふと思考に違和感を覚えた。いでいなければならないはず顕在けんざい思考が激しく波打っている。いわ

「停滞を破れ」

「身の振り方を考えよ」

「テンプレエトに従え」

「みんなそうしている」

「平均に及ばず」

「取り返しのつかないことになる」

云々うんぬん。心臓が高鳴り、焦燥感に支配されそうになった私は何者かの気配を察知し、ヴェランダの方を見た。大きな万年筆を持ったスウツの男が帽子を被り直していた。彼は私の視線に気がつくと、ひらりとヴェランダから飛び降りた。

 嫌な予感に、私はすぐさま正しき世界のアカシックペエジへと接続し、彼らの正体を調べ始めた。しかし、十二世紀程までさかのぼっても、なんの情報も得られなかった。

 おかしい。

 私の脳髄のうずいは論理を跳躍ちょうやくし、そう解答した。私は時の経つのも忘れてアカシックペエジを遡った。十世紀、七世紀、五世紀、まだ出てこない。ここまで歴史に情報がないことを気味が悪くさえ思い始めたその時。紀元前三六七年のとある賢人の情報にアクセスして、とうとう私は彼らの情報を入手したのであった。

 人々の前提条件を書き換える者、至る所に湧き出ながらも空間を占領せぬ者、或いは人をとある隷属れいぞく機構に縛り付ける者。彼らは人の深層に入り込み、あらゆる定義を変換する。対象者は指定された概念こそが真なる世界の姿と錯覚し、それに順応するように生を放棄する。彼らに毒されたが最後、人は彼らが指定したいびつな幻術に奇怪な前提条件のもと生命を繋ぐことが誠実だと認識する。その悪魔の所業を為す者は、本来なんの力も持たぬ。ただ、人々の思考をかき乱し、在りもしない幻術を見せるだけである。何処から生れたのか見当もつかぬ、質量無く遍在へんざいするその存在を、私は遍在幻術師と名付けた。

 おおよそ、こんな内容であった。私はアカシックペエジを閉じ、急いでパアソナル・エンサイクロペジアを開き、「世界」の項を探した。

世界:選ばれた一部の者以外は思うままにならぬと仕え生きる場

私は背筋に絶対零度の恐怖を感じながら、それを書き換えた

世界:祝福へ到る運河

他にも私のエンサイクロペジアは人生と善と常識と美徳の項が見るも恐ろしい内容に書き換えられていた。

人生:苦悩により存在を確立し、他者よりも優れた人格を形成する試み

善:常識のこと

常識:全ての人類が適合すべき善

美徳:苦悩を越えること

私はすぐさまエンサイクロペジアを修正し、布団に入った。枕辺にいつ、あの存在が立つかと思うと、なかなか寝つけなかった。


 あくる日、私は街に出ると、遍在幻術師なる存在がこうも多いものかと驚いた。車道の真中、高架下、公園のベンチ、コインパアキング、文房具屋の軒下、ゴミ集積場、銭湯の煙突、居酒屋の赤ちょうちんの影、図書館の窓辺。およそ彼らの居ない所を探すのが難しいと思われた。彼らは常に、手にした大きな万年筆で宙に何かを書いていた。そしてその呪詛じゅそのような言葉の帯を人々へと飛ばしていた。しかし、人々は誰ひとりとして彼らの存在に気づいていなかった。私は自身のエンサイクロペジアが書き換えられていないか、往来で何度も確認していた。

 警戒に疲れた私はとある喫茶店に入り、幻術師の居ない席へと腰を下ろした。やがて運ばれてきた珈琲を飲みながら思案する。

 遍在幻術師とは何者だ? 彼らの目的はなんだ? アカシックペエジには人をとある機構に隷属させると書いていた。そんなことをしてなんになる? いや待て。そもそもアカシックペエジに彼らの情報が少なすぎるのも不自然だ。歴史になんの痕跡こんせきも残さず私たちの概念を書き換えるなんてことができるのか? もしや、アカシックペエジまで、彼らは改ざんしたのか? 何かが、起きようとしている。

 何気なく目線を動かした私は絶叫して椅子から立ちあがった!

 肩越しに私の顔を覗き込むようにして遍在幻術師の虚無の顔があった。周囲の人間が一様に私に視線を向けるが、それどころではなかった。彼の顔をまともに見ようとしても、視線が、闇さえない無に吸い込まれ、急に盲目になったような気がした。遍在幻術師は私の肩をつかむと、その無を鼻の先まで近づけた。ブラックホオルのようなそこから男性とも女性ともつかない声が聞こえた。

「貴方、何故なぜ、私たちのことが見えるのです? そして何故、自らのエンサイクロペジアの存在を忘れていない? 何故? 何故? これでは書き換えられないではないですか」

私はたまらず、珈琲の代金も払わず、叫びながら喫茶店を転がり出た。


 その後、私は目立たぬように遍在幻術師を調査した。その結果を今、諸君に報告しようというのである。諸君には認知できぬ存在として、遍在幻術師は実在している。そして彼らは今も、私たちの概念を書き換えようとしているのである。諸君はこんな言葉を聞いたことがないだろうか。

「仕方ない、これが現実だ」

「人生なんてそんなものだ」

「良いことと悪いことは差し引きゼロになる」

「苦労しなければ立派な人間には慣れない」

「苦悩を知らぬ者には市民権は与えられない」

これら皆、あの恐ろしい遍在幻術師の仕掛けた罠なのである。彼らは私たちを、苦悩に人格が担保される世界に繋ぎ留めておくために、私たち個人が所有するエンサイクロペジアを書き換えているのだ。彼らや彼らを使って利益を得ようとする一部の者たちにはその方が都合が良いのである。彼らの罠は巧妙だ。私たちの思考のすきに入り込み、さも当然のことのようにして概念や価値観をじ曲げるのである。諸君、聞け。諸君のエンサイクロペジアを開け。それは諸君が世界を見渡す際のしるべである。諸君のエンサイクロペジアには世界、人生、現実、善、常識、美徳、努力、苦悩がなんと定義されている? 誰かや何かを参照しようとするな。それらは諸君が己で定義するのだ。それに、参照した先にも遍在幻術師の罠が潜んでいるかもしれない。ただし、世界が歩んだ正しい歴史、アカシックペエジを見ることは有効だ。本当の世界には遍在幻術師が生み出した概念や価値観の例外がいくつもある。諸君が遍在幻術師の罠を退け、己の世界を己で定義できるようになれば、遍在幻術師は消失するだろう。

 諸君の健闘を祈る。

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