廃棄された言葉

 朦朧もうろうとした頭で私は首をこすりながら、船に乗った。船頭は無言のままにかいを動かし続けた。川のおもては鏡面のようで、そこにやつれた顔の男が一人、映っていた。それが自身だと分かるまで、私はほうけたように動かなかった。

 私は何故ここに居るのだろう。

 船頭を見た。彼は枯れ枝のような腕で船を漕いでいた。

「お前さん、やったね?」

「え? 何を……」

「ああ、まだめていないか。幸せもんだそりゃ。苦しいぜここからは」

「この船は、何処に向かっているのです」

「王様の所さ。お前さんはそこで裁きを受けるのさ」

「王? 裁き? 何のことです」

「じきに思い出すさ」

 やがて船は岸へと着き、私は王の前に引き出された。薄暗い洞窟のような場所で、王は土塊つちくれのような玉座に座り、足元に書物をうずたかく積み、軽蔑けいべつにも似た表情で私を見下ろしていた。

「さて、何から問おうか」

低くしわがれた声はなんとか私の耳に届いた。

「お前は、生をなんと心得る? 生きることとはなんだ」

王は微塵も表情を崩すことなく問いかけた。畏れにも似た緊張感の中、私は慎重に言葉を選んだ。

「生きることは、理不尽の連続です。生まれた時から、人の運命は決定されています。強く生まれた者は強く生きることができます。しかし、弱く生まれた者には、弱く生きることしかできません。選択肢、という言葉は、そもそも強者の概念です。そして世間は常に強者の美徳で管理されています。弱者は常にその機構の中で生きることを強いられる。生とは、理不尽なものです」

王は私から目線を外し、ゆっくりと首を傾げた。

「わからん。何故そのような考えに至るやら、私には分からん。では再び問おう。お前の言う強者とはなんだ」

「世間に認められた者のことです」

「世間? 世間とはなんだ。大衆のことか」

私には明確な違いは分からなかった。

「そう、です」

「では、どのような愚か者でも大衆が認めれば強者か」

「はい」

断言できた。世間とはそういうものではないか。私はこの王とやらが馬鹿なのではないかと疑い始めた。

「お前は、強者か。弱者か」

「私は、弱者です。誰にも、何も届けることのできない、弱者です」

これも断言できた。

「ようやく分かってきたぞ。お前の愚かさが、な」

王は私の目を見据えて言った。

「お前にひとつ、教えてやろう。真の強さとはな、存在の継続だ。いかなる場所に置かれようが、己の存在を咲かせ続ける者、それこそが強者だ。大衆の評価など、どうでもよい。さて、そろそろ頃合いか。お前、自身の過去を思いだせるか」

「過去……私の過去は……」

何も思いだせなかった。王は、ふむ、とうなった。

「ならば、これはどうだ」

王が背後の壁に触れると、文字が浮かび上がった。

なんじを肯定し続けよ。汝こそ誰よりもその人物を知る者である”

“誰にかえりみられぬとしても、魂の叫ぶようにして生きよ”

“苦悩に蹂躙じゅうりんされたとて、決してそこに自我を求めるなかれ”

“銀河の支流としての必然の生は正しき運命に誘引される”

「お前はこれを見てどう思う」

忌々いまいましい言葉だった。そんな言葉は世間に通用するものではない。

「そんなのは、皆、キレイゴトです」

「馬鹿者!」

王が洞窟に響き渡る声で怒鳴った。

「これらは悠然と世界を見渡し、孤高にも正しき道を歩んだ賢者の言葉として、我が書物に書き加えられるはずのものだったのだ。それが、先ほど廃棄された。お前自身の手によってな」

「私によって廃棄された? どういうことです」

「お前はこの言葉をつむいだ賢者を殺したのだ」

「私は、決して人殺しなどしておりません」

「ほう、では答えよ。お前は何故ここに居るのだ」

突然、頭に断片的な映像が流れ込んできた。人里離れた海辺の防風林、ひときわ大きな松の木、丈夫なロオプ、脚立、遺書。

 これは、私だ。突発的な無力感と怠慢たいまんの延長上にある幻影としての陰鬱な未来像のために、私は自ら死を選んだのだ。

「どうだ、思い出したであろう。貴様の罪を。先の言葉はお前自身が紡いだものだ。もしも、お前が自ら死を選ぶことなく、天上へと至っていたならば、お前の言葉はそこで永久に語り継がれていただろう。しかし、お前はそれを自らの手で廃棄した。この罪の重さがお前に理解できるか」

「しかし、私は生きていた時でさえ、誰にも顧みられませんでした。そんな私の言葉がどうして天上で語られましょう」

「愚か者め。地上の価値観で物事の本質を計れると思うな。天上で扱われる全ての書物、いや芸術はその者の魂から発現したものばかりよ。地上で大勢が見たから、誰にも顧みられなかったからなんだというのだ。大体、“誰に顧みられぬとしても、魂の叫ぶようにして生きよ”とは誰が言った。お前だろう。お前は書物の上で幾万もの言葉を大衆へと投げかけた。しかし、いつでも、その対象にはお前だけが含まれていなかったのだ。それもお前の罪だ。大罪人め」

王の言葉が、鋭く、胸に突き刺さった。

「では、では私は一体どうしたら良かったというのです」

「どうしたらも何もない。ただ、生きておれば良かったのだ。馬鹿者」

肩を落とす私の頭上から、尚も王の声が降り注いだ。

「さあ、これからお前の罰を執行する。先ずは千年、お前の死をいたむものの嘆きを見続けるのだ。それが終われば、お前の廃棄した言葉を千遍、書き続けるのだ。連れて行け」

私は兵士に抱えられ、嘆きの川へと連行された。


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