成恋坂

 その町には成恋坂じょうれんざかと呼ばれる長い坂があった。その坂を意中いちゅうの人間とのぼれば恋が実るだとか、息をせずに上れば恋愛の運勢が上がるだとか、恋人同士で下ると破局をするだとか、恋愛に関するうわさと縁が深いその坂を、人々は誰言うとなく成恋坂と呼んでいた。

 一体、光太郎はそんな噂を信じていなかった。きっと頭の悪い、神頼みを本気にしているような人間ばかりがそんな噂を流し、あるいは信じているのであろうと軽蔑けいべつすらしていた。しかし、その彼が今、息を止め、顔を真っ赤にしながらその坂を上っていたのである。

 私は彼の名誉のために彼に代わって読者に弁明をするが、これは検証である。この長い坂を、果たして息をせずに上りきる者があるのだろうかという検証なのである。もし、そうでなかったら、やはり、噂は実現不可能な出鱈目でたらめであると立証されるのである。乗りかかった船。あと少し、もう少し。こう考えて、光太郎は歩みを進めていたのである。

 彼はとうとう、こらえきれなくなり、ひざに手を置いて、前かがみになったまま、大きく息をした。はずみで学生帽がくせいぼうが落ちた。まだ半分以上も坂は残っていた。息を整え、坂から町を見ると、家々が夕日に染まっていた。

「馬鹿馬鹿しい。やっぱり噂なんて、信じるに値しないものだ。こんなに長い坂を息を止めて上り切れるもんか」

学生帽を被り直しながら、光太郎は毒づいた。毒づきながらも考えた。

「まてよ。これはもしや、逆説的に恋愛に対する働きかけの無力さを暗示しているのか? どれだけ本人が努力したところで、結局はどうにもなりやしない。この噂はそんな一種のニヒリズムを暗示しているのか」

考えを巡らそうとした脳髄のうずいを、止めた。そんな考えこそ馬鹿馬鹿しいと、光太郎は自嘲じちょうを含めて笑った。

「恋なんて、一種の病気さ。そうに決まっている。しかし、しかしだ。もし、僕が恋をするとしたら――」

 公平を保つために、私は注釈ちゅうしゃくを付け加える。恋をするとしたら、は正確ではない。彼は恋をしていたのだ。学校一の才女と呼ばれる白井芳子に。

「しかし、彼女に僕は、釣り合わない」

相手はあの白井芳子しらいよしこだ。才色兼備さいしょくけんび、文武両道。光太郎はおろかな噂を流す連中程、馬鹿ではなかったが、芳子と並んで歩けるほど、賢くもなかった。その自覚が、彼に恋心を認識させる前にあきらめの幕を下ろしていたのだ。

「僕が本気で白井さんを好きだったとしたら、この坂に執心しゅうしんするのだろうか」

光太郎は坂を見上げ、歩いてきた道を振り返った。途端。

「あら、一条君」

「し、白井さん」

深層恋愛の相手が、そこに立っていた。

「白井さん。えっと、どうして」

慌てた光太郎は分かりきった質問をした。

「私の家、この先なの。一条君も?」

「ええ。そうなんです」

「そう。途中まで一緒に行きましょうよ」

「はい」

二人並んで、坂を上り始めた。光太郎にとっては寸時すんじの沈黙が、もどかしかった。芳子は夕日を顔に受けながら綺麗きれいな姿勢で歩いていた。その横顔を、彼はなん度も盗み見た。

「ねえ、一条君。貴方もこの坂、いつも上っているの?」

会話を切り出したのは芳子だった。

「ええ。そうです。毎日」

一寸ちょっと、長いわよね。私、毎日くたびれるわ」

「坂。嫌なものですね」

「本当」

また、重い沈黙が流れた。光太郎はこらえきれず、思いついたまま、口を開いた。

「坂、と言えば、白井さんはこの坂の俗称ぞくしょうをご存じですか」

「ああ、確か、成恋坂、といったかしら。なんでも意中の相手と上ると恋が実るんでしょう?」

「ええ。他にも、息を止めたまま上ると恋が成就する、とか、いろいろ噂があるみたいで」

「へえ。それだけ皆、恋に夢中なのね」

「いかにも馬鹿馬鹿しい話ですね」

光太郎は笑いかけた。芳子は少し、口角を持ち上げてみせた。

「馬鹿馬鹿しい、と言えば、それまでだけれど、私は少し、あこがれるわね。そんな噂に希望を見出すぐらいの恋に。そして、本当にこの坂が、恋愛を成就させてくれると、素敵だと思うわ」

芳子は感傷的にも思える表情でだいだいに染まった空を見上げていた。光太郎の胸を鋭い焦りが刺した。

「今、誰かに思いを寄せているんですか」

「いえ、居ないわ。そんな人。でも、うらやましい。私も恋をしてみたいわ」

「そうですか。いやしかし、白井さんと釣り合うだけの男性がいるかどうか」

光太郎が冗談めかしてそう言うと、芳子はふと足を止めた。

「釣り合うって?」

芳子は純粋な疑問の表情で光太郎を見つめていた。

「つまり、その。白井さんは優秀な人ですから、その隣に立つ人間もやはりそれに見合った人物でないといけませんから」

芳子はわずか目を伏せた。

「私のことをそうやって褒めてくれる人は、いるわ。でも、それって、私の本質じゃないと思うの。ただ、社会のいたレエルを少しうまく歩いているだけ。ちょっと社会の在り様が変わるだけで、人を計るものさしなんて変わってしまうものよ。私は、怖いわ。今に世間のものさしが変わって、人に落胆されることが」

光太郎は芳子の吐露とろを聞きながら彼女が本物の才女であることを確信していた。或いはこれが強者の憂慮ゆうりょだとも思った。

「それにね。私、恋愛に釣り合うも何もないと思うの。人って誰かと自分を比較して一緒にいるわけじゃないでしょう? 私が好きと思う人と恋がしてみたいの。私って、少し、夢みがちなのかしら」

「いえ、そんなことは」

「ありがとう。それで? 一条君は恋愛に興味はないの?」

無垢むくな表情で芳子がたずねた。

「まるで無い、と言うことはありませんが」

少しずつ、光太郎は自らが遮断しゃだんしていた恋心を自覚し始めていた。

「つまり、僕はまだ、自身が持てないんです」


 二人は、坂を上りきっていた。

「そう。軽々しく、自信を持ってなんて言えないけれど、いつか恋をして、それが実るといいわね」

「ありがとうございます」

「じゃ、また学校でね」

「はい」

芳子は夕暮れの道を、帰っていった。

「成恋坂、か」

光太郎はその後姿を眺めながら、成恋坂の噂について、考えていた。

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