成恋坂
その町には
一体、光太郎はそんな噂を信じていなかった。きっと頭の悪い、神頼みを本気にしているような人間ばかりがそんな噂を流し、
私は彼の名誉のために彼に代わって読者に弁明をするが、これは検証である。この長い坂を、果たして息をせずに上りきる者があるのだろうかという検証なのである。もし、そうでなかったら、やはり、噂は実現不可能な
彼はとうとう、
「馬鹿馬鹿しい。やっぱり噂なんて、信じるに値しないものだ。こんなに長い坂を息を止めて上り切れるもんか」
学生帽を被り直しながら、光太郎は毒づいた。毒づきながらも考えた。
「まてよ。これはもしや、逆説的に恋愛に対する働きかけの無力さを暗示しているのか? どれだけ本人が努力したところで、結局はどうにもなりやしない。この噂はそんな一種のニヒリズムを暗示しているのか」
考えを巡らそうとした
「恋なんて、一種の病気さ。そうに決まっている。しかし、しかしだ。もし、僕が恋をするとしたら――」
公平を保つために、私は
「しかし、彼女に僕は、釣り合わない」
相手はあの
「僕が本気で白井さんを好きだったとしたら、この坂に
光太郎は坂を見上げ、歩いてきた道を振り返った。途端。
「あら、一条君」
「し、白井さん」
深層恋愛の相手が、そこに立っていた。
「白井さん。えっと、どうして」
慌てた光太郎は分かりきった質問をした。
「私の家、この先なの。一条君も?」
「ええ。そうなんです」
「そう。途中まで一緒に行きましょうよ」
「はい」
二人並んで、坂を上り始めた。光太郎にとっては
「ねえ、一条君。貴方もこの坂、いつも上っているの?」
会話を切り出したのは芳子だった。
「ええ。そうです。毎日」
「
「坂。嫌なものですね」
「本当」
また、重い沈黙が流れた。光太郎は
「坂、と言えば、白井さんはこの坂の
「ああ、確か、成恋坂、といったかしら。なんでも意中の相手と上ると恋が実るんでしょう?」
「ええ。他にも、息を止めたまま上ると恋が成就する、とか、いろいろ噂があるみたいで」
「へえ。それだけ皆、恋に夢中なのね」
「いかにも馬鹿馬鹿しい話ですね」
光太郎は笑いかけた。芳子は少し、口角を持ち上げてみせた。
「馬鹿馬鹿しい、と言えば、それまでだけれど、私は少し、
芳子は感傷的にも思える表情で
「今、誰かに思いを寄せているんですか」
「いえ、居ないわ。そんな人。でも、
「そうですか。いやしかし、白井さんと釣り合うだけの男性がいるかどうか」
光太郎が冗談めかしてそう言うと、芳子はふと足を止めた。
「釣り合うって?」
芳子は純粋な疑問の表情で光太郎を見つめていた。
「つまり、その。白井さんは優秀な人ですから、その隣に立つ人間もやはりそれに見合った人物でないといけませんから」
芳子はわずか目を伏せた。
「私のことをそうやって褒めてくれる人は、いるわ。でも、それって、私の本質じゃないと思うの。ただ、社会の
光太郎は芳子の
「それにね。私、恋愛に釣り合うも何もないと思うの。人って誰かと自分を比較して一緒にいるわけじゃないでしょう? 私が好きと思う人と恋がしてみたいの。私って、少し、夢みがちなのかしら」
「いえ、そんなことは」
「ありがとう。それで? 一条君は恋愛に興味はないの?」
「まるで無い、と言うことはありませんが」
少しずつ、光太郎は自らが
「つまり、僕はまだ、自身が持てないんです」
二人は、坂を上りきっていた。
「そう。軽々しく、自信を持ってなんて言えないけれど、いつか恋をして、それが実るといいわね」
「ありがとうございます」
「じゃ、また学校でね」
「はい」
芳子は夕暮れの道を、帰っていった。
「成恋坂、か」
光太郎はその後姿を眺めながら、成恋坂の噂について、考えていた。
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