終末絵図(彩花の場合)

  “緊急事態宣言”から、今日で三日。いまだに世界は小惑星衝突の難を逃れていないようだった。でも、具体的にいつ、それが衝突して人類が滅亡するのか、という情報は流れてこなかった。人々のこれ以上のパニックを抑制するためか、研究者にも分からないのか。どっちなんだ? 

 依然ニュース番組では各国が協力し、総力を挙げて対処する、という発表が繰り返し放送されるだけ。アナウンサーが連日、公共の電波を使って、大切な人との時間を過ごして、と感傷的なことを言い続けているのを見ていると、もういよいよ駄目なんだという気がしてきた。

 三日間で私の住んでいる町は随分変わった。秩序ちつじょはなくなり、訳の分からない犯罪が増えた。隣家の夫婦が心中しただとか、公園で怪しげな集団が祈りを捧げているだとか、各国の首相は既に地球の外へ脱出しただとか、嘘か本当か分からない、いや、別に知ろうとも思わない噂が蔓延していた。

 ベッドに腰かけ、窓から外を見る。私は終末が発表された日から、一歩もとに出ていなかった。幽閉ゆうへいされた王妃おうひの気分が少し分かった。まだ人が住んでるはずの町が、抜け殻のように見えた。向かいの通りをいつもの中年男性がダンクトップいち枚で絶叫しながら全力疾走しっそうしていた。

「もうそんな時間?」

時計を見ると午後五時。夏の夕方はまだ明るかった。立ちあがって部屋の明かりをつける。

「今日も、電気は通ってる」

消す。電気はいつ、供給が止まるとも分からない。こんな状況でも、発電所は動いているんだろうか。発電所が停止しても、町のあちこちにある大型蓄電池から最低限の電気が供給されるという噂もあるが、真偽はやっぱり分からない。皆、なんとなく電気を浪費しないように生きているらしいが、意味があるのか、分からない。発電所が止まればそれまでじゃない? 全てが無駄な足掻あがきに見えた。ふと、ノックの音が聞こえた。

「ねえ、彩花。降りてきてお茶でも飲まない?」

弱々しい母さんの声。恒例の陰気茶会だ。私は少し考えてから返事をした。

「分かった。行く」


 エアコンの効いたリビングに降りると、ほのかに紅茶の香りがした。父さんと母さんが並んで行儀よく座っていた。誰も何も話さない。私は陰気な空気に気圧されながら対面する席に腰を下ろした。

「ねえ、これからどうなるのかしら」

三日間でこれが母の口癖になっていた。

「分からんな。政府の正式な発表を待つしかない」

父さんが真面目くさって返答していた。そんな様子を見ながら、今日の私は紅茶にミルクを入れてかき回した。

「水道やガス、電気なんかはいつ止まってしまうのかしら」

母さんは昨日とまるで同じ、到底知り様の無いことを聞いた。父さんも私も答えなかった。

「ハルマーーーーーーゲーーーーードーーーン。ハーーーーーーーーーーーー」

絶叫全速力タンクトップご帰還の時間だった。母さんは大げさに思える程震えていた。

「なんなの! もう。どういうこと。皆、おかしくなっちゃう。ねえ、どうして。私たちはまだ大丈夫よね。まだ、いつも通りよね」

かつての快活な母さんの姿はそこにはなかった。

「あの人ってさ、なんか、大企業に勤めてる人じゃなかったっけ」

紅茶を飲みながら、父さんに尋ねた。

「門倉さんね。確かにそうだった」

「へー。確か、前に会った時、高そうなスーツ着て、髪バッチリ決めてた。それがああなっちゃうんだ」

「そうだね。世界が終わってしまうかもしれないとなれば、人間の肩書も体裁も、何の意味も持たないんだろうね」

「そっか」

私は返事をしながら、終末を前にして全てかなぐり捨て、自分を解放しているタンクトップの門倉さんを少しだけ羨ましく思った。

「それより彩花。お兄ちゃんに連絡はついた?」

「え? あー全然。返事ない」

思わず、私は母さんに嘘をついた。連絡など、していなかった。

「そう。私や父さんの連絡にも返事をくれないの。こんな時ぐらい、戻ってきてくれたっていいじゃない。どうして連絡をくれないの? 家族が、家族が大事じゃないって言うの!」

母さんは少し、ヒステリーを起こしていた。

 兄さんだって、もう大人だ。家族以外に大事なものができたって不思議じゃない。という言葉を、私は紅茶で飲み込んだ。

「ねえ、彩花。彩花はずっと一緒にいてくれるわよね? 何処どこにも行かないわよね? ね?」

母さんのヒステリー変化率は昨日よりもずっと急だった。終末を予感しただけで、人間とはこうも変わってしまうものかと、虚しかった。同時に、自分がどうしてここまで鈍感になれるのか、分からなかった。私にとって、どうするのが良い終末なんだろうと、答えの得られないようなことを自問しているうちにも、母さんのヒステリーボルテージは上がっていた。父さんはそれとは対照的に腕を組んだまま何も言わず、不安そうに母さんの様子を眺めていた。

「ねえ! 彩花! 黙ってないで何か言ってよ。家族でしょ、私たち!」

繰り返される“家族”という言葉が癪に障った。

「何? 家族家族って。勝手に母さんの理想を押し付けないでよ! そんなんだから兄さんも戻ってこないんじゃないの?」

どんな言葉が母さんに大きなダメージを与えるのか、私にはよく分かっていた。

「なんなら、私も出て行ってやってもいいんだけど」

母さんにより重い一撃を見舞ってやろうと思って放ったこのひと言がまずかった。母さんは私が瞬きするよりも早い動きで立ち上がり、カマキリが獲物を狩る勢いで私のほおに平手打ちを喰らわせた。驚いた父さんはカップを持ち上げたままの格好で全ての動作を停止させていた。

「彩花……。お願い。そんなこと言わないで」

蚊の鳴くような声の後、母さんは泣き崩れた。昨日よりも数段気まずい陰気茶会になってしまった。私は逃げるように自室に戻り、眠くも無いのにベッドに横たわった。階下では、母さんが父さんを相手取ってヒステリーを爆発させていた。

「悪いこと言っちゃったかな」

そう呟きながら、私は世界が終わるよりも前に家庭が崩壊するのではないかと半ば本気で心配していた。

 小惑星の衝突。世界の終末。

 実感が湧かなかった。何も私が生きてる時代に終わることないじゃん。世界。今、うちの外の世界はどうなってるんだろう。きっと人類が醜態をさらしているに違いない。ヒステリーで喧嘩したり、自暴自棄になって人に迷惑かけたり、イカれて泣きわめいたり。もしそうなら、なんてみにくいんだろう。これが人間なのかな。そう思うと、世界が気の毒だった。人間が、世界の終わりを醜く塗りつぶしている。でも、世界。勘違いしないでくれ。多分、きっと、これが人間本来の姿じゃない。よく、普段と違う状況に置かれた時に、人の本性が分かるって言うけど、私はあんまりそれを信じていない。普段じゃない状態に置かれたんなら、精神も普段と違ってしまうにきまってる。バグるんだ。やっぱり普段の人間の姿が本質だよ。母さんだって。今の母さんが本当の母さんじゃない。分かってる。そんなこと。普段に戻って、なんていうのは無理な願いだろうか。世界が終末を回避しない限り、日常はもう……。頼むよ、偉い人。なんとかして。


「ねえ、彩花。彩花。もう起きてる? ねえ」

扉の向こうからの母さんの声で目を覚ます。

「え? うん。起きた」

「良かった。返事してくれて。ご飯、できたから降りておいで」

「はーい」

特にお腹はすいていなかったものの、私はリビングに降りていった。焼き魚に味噌汁、卵焼き、玄米。もしかしたら、これが最後の晩餐ばんさんかも。そう思ってみたところで、何の感慨かんがいも湧かなかった。仮眠をはさんでみても、家族に流れる気まずい空気は晴れていなかった。父さんが味噌汁をすする音と、テレビから流れるニュース番組の音声だけが沈黙を埋めていた。


 このような事件は依然、増え続けているということです。皆様、いかがお過ごしでしょうか。いまだ、政府から新たな情報は発信されておりません。また、各地では治安の悪化が進んでいるのが現状です。今は不要不急の外出は避け、トラブルや犯罪に巻き込まれないように十分注意した上で、大切な方との時間をお過ごしください。私共も最後まで、皆様に正しい情報をお届けできるよう、尽力いたします。


 ここ数日、私はニュースの上でしか、世界を知らない。今、外の世界はどうなってるんだろう。

「ね、彩花。テレビでも言ってるでしょう。外は危険なの。だから、冗談でも出て行くなんてこと――」

「大丈夫だって。しない。しないよ」

母さんがまた、泣き出しそうな声をあげ始めたから、私は慌ててそう返事をした。もちろん、わざわざ外に出て行こうなんて思っていなかった。あの時は。でも今、終末を前にして世界はどうなっているんだろう。そこには本当に醜い人間しかいないんだろうか。もしかしたら何処かに終末を美しく彩れるような人がいるかもしれない。終わってしまう前に、世界のありのままの姿を、見てみたい。

 とても両親の前では口にできない好奇心が胸に染み出すのを感じていた。終末を前にして、世界はどう変わったんだろう。人はどう変わったんだろう。私たちが失くしたものって……。

 私は焼き魚を解体しながらそんなことを考えていた。

 私が失くしたものは、週に五日の登校と、平和な日常、あとは、将来への展望? いや、展望なんか、もとからなかったけど、未来について考えることはなくなった。もし、夢がある人なら、どうなってしまったんだろう。あ、そうだ。ニッシーは音楽プロデューサ―になりたいって言ってたっけ。作詞も作曲もやってた。結局、ニッシーのつくる音楽がどう、すごいのか。私には分からなかったけど、彼女の音楽はなんとなく好きだったんだよな。ニッシーの音楽はどうなるんだろう。夢がなくなるって、どんな感じなんだろう。ニッシー、何してるんだろう。学校はどうなってるんだろう。町の人は、世界は、どうなってるんだろう。もしかしたら、この町の片隅にでも、美しい終末が在ったりしないだろうか。

 焼き魚を骨と皮だけにして、玄米を平らげてしまった私は、空いた皿を眺めながら、黙って座っていた。そして、決めた。

「ねえ、彩花。何考えてるの」

母さんが不安と怯えの表情で聞いた。

「別になんにも」

「本当? 本当なの?」

“本当だってば!”

と、私は言わなかった。

「うん、ちょっと眠くなっただけ。ごちそうさま。食器、洗っちゃうね」

「いいのよ。母さんがやるから置いておいて」

「ううん。たまには手伝うよ」

私は食器を洗い、お風呂を沸かし、洗濯物を畳んだ。今夜決行することのせめてもの罪滅ぼしに。


「じゃ、おやすみ」

両親にそう告げて、私は自室に戻ってきた。家では電気節約のため、うんと早い時間に就寝することになっていた。とはいえ、私はいつも夜中まで起きているから、電気の節約には全然貢献できていなかった。ベッドに腹ばいになってスマートフォンで動画を見る。この三日間でいい加減な動画が随分と増えた。

“小惑星落下までのカウントダウン発覚”

“五次元からの救済! この特徴に当てはまった人だけは助かる?”

“地球滅亡のシナリオは秘密結社によって定められていた”

“小惑星落下にも耐えられる家庭用シェルターとは”

“生き残りたい人必見! 政府が発表しようとしない世界滅亡の真実”

うんざりだった。終末の騒乱に乗じた、くだらない動画ばかり。こんなのを信じる人間が何処にいるんだ、と、私は心の底からそう思っていた。この期に及んでまで小人欲求を満たしたいのか? いや、それとも動画の最後にシェルターの購入サイトが現れてお金を取られるのか? いや、今や必要以上のお金なんてあっても仕方ないだろう。どうでもいい。この動画のタイトルみたいに、限られた人しか生き残れないとしたら、私は別に生き残りたいとも思わない。きっと、滅亡後の世界は今以上に醜いだろうから。私はせめて、まともなままで死にたい。ため息をつきながら、くだらない動画と世界の滅亡が発表される前から投稿されていた平和な動画たちをスワイプしていた手が止まった。

“もちもちのアヒルが可愛すぎる”

これだ。私は動画をタップした。真っ白でもちもちのアヒルが飼い主を追いかけて庭を駆け回っていた。時々、何かにつまずいて盛大に転ぶ。

 シュートなアヒルの姿に、私は笑っていたことを自覚した。今日、初めて笑ったんじゃないかな。よし。夜が更けるまでアヒルまみれになろう。

 走るアヒル、泳ぐアヒル、親子のアヒル、鳴くアヒル、食べるアヒル、密集したアヒル、猫と一緒のアヒル、犬と一緒のアヒル。色んなアヒルを見ているうちに私は時の経つのを忘れていった。

 やがて時刻は午後十一時。どうだろう。そろそろいいだろうか。私は足音を忍ばせて階段を降り、リビングから両親の寝室の方をうかがった。寝てる? 途端、ガチャリと寝室の扉が開いた。

「あら、彩花。起きてたの?」

「母さん。あ、えと。母さんも起きてたの?」

「ちょっと目が覚めてね。トイレに行こうと思って」

「あーそうだったんだ。私は、その、喉乾いたから、なんか飲もうと思ってさ。それじゃあ、おやすみ」

何か言いたげな母の視線から逃げるようにして、階段を上る。驚いた。まだもう少し時間を潰した方がよさそうだな。あと、一時間くらいかな。何しよう。またアヒルでも見るか? さすがに飽きたな。

 私はスマートフォンのアラームを一時間後にセットしてベッドに横になると目を閉じた。外に出たら何をしようか。あてはないけど、何処かへ行こう。世界が今、どんな様子なのかをこの目で見るために。父さんと母さんには、絶対見つかっちゃいけない。外の世界を見ようと先走る意識のために、結局、眠れないままアラームが鳴った。


 私は衣装ケースからなるべく大きめのサイズのジャージを取り出して着替えた。黒いキャップを目深に被る。ポケットには財布とスマートフォン。家の鍵も、持った。よし。作戦決行だ。部屋の電気を消し、廊下へ。わずかの足音もたてないよう、長い時間をかけて一歩を踏み出す。床の質感が靴下越しにでもはっきりと分かった。一歩、また一歩と足を進める。そして、階段へ。慎重しんちょうに体重移動を。ゆっくり、音をたてないように――。

 パキッと、木製の階段が鳴った。

 フリーズして三秒。目だけを動かして辺りを窺う。父さんも母さんも起きてくる気配はない。セーフ。スマートフォンの明かりを頼りに玄関で靴を履く。準備は、できた。扉に手をかける直前。

 ばれたら怒られるだろうな。なるべく早く帰ってこよう。世界が終わってしまうかもしれないという状況。両親に変な不安を与えない方がいいに決まっている。それでも、私は世界を見たい。私はワルイコなんだ。音のしないよう、力を入れて鍵を開ける。ゆっくりと扉を開けて外に出て、閉める。鍵をかけて……。よし。

 私は大きく息をついた、空には薄く雲がかかって、その向こうに星が光り、鎌のような月が妖しく輝いていた。この夜空の何処かに人類をこれだけ騒がせている小惑星がある。そいつを見つけてやろうと目を凝らしたが、さっぱり分からなかった。足元へ目を向け、夜の街へと駆けだしたくなる気持ちをグッと堪えた。落ち着け。終末の町へ繰り出すんだ。どんなことに巻き込まれたって、文句は言えない。言うけど。充分注意しないと。しかし、その危険の予感が極上のスリルとして私の交感神経に作用した。深呼吸して、私はいよいよ歩きだした。

 ひと気の無い住宅街。耳が痛い程の静寂だった。どんどんと人が何処かへと出ていっているという噂はどうやら本当らしかった。空き家のようになっている家も、少なくない。そんな家に限って窓を見つめていると、誰かがこちらを覗いているような気がした。私は手汗の滲む手をパタパタさせながら歩いた。

 そうだ。中央公園へ行ってみよう。あそこでは夜な夜な、奇妙な集会があるって噂があるらしい。確かめてやる。私は細い路地へと入った。

 !

 一定間隔に灯る街灯の向こうから、誰かがこちらへと歩いてくるのが見えた。どうする? 引き返す? いや、こんなのに驚いてちゃ、駄目だ。行こう。私はキャップをぐっと深く被り直し、こぶしを握り締めて歩きだした。一歩、また一歩とその人物が近づいてくる。男だ。くわえ煙草でビニール袋をげている。足元が少しおぼつかないようだ。酔ってる? 次第に男の顔が分かるくらい距離が縮んできた。何かしてきたらどうしよう。急所への膝蹴りを脳内シミュレーションしながら、私は歩いた。男は火のついた煙草を路上に投げ捨てた。良識のある人間ではないようだった。大丈夫かな。逃げる? いや、ここまで近づいてたらもう遅い。このまま歩く。何かあれば、蹴る! もう男は間近だった。一歩一歩近づいてくる男と、とうとう! すれ違った。妙な達成感から私が振り返ったその瞬間!

「ダアアアックショイ!」

私は比喩でなく、飛び上がった。男の馬鹿でかいくしゃみが森閑とした住宅街に響き渡っていった。


 ようやく路地を抜けた私は、公園への道を歩いた。終末だからといって、なんということはないじゃないか。きっと、皆、必要以上におびえてるだけなんだ。なんにも普段と変わっていやしない。大丈夫、大丈夫。これがくしゃみ男をやり過ごしたことによる、かりそめの自信なのか、私が自身を鼓舞こぶするための偽りの安堵なのかは、分からなかった。そのうち、大きな車道のある通りに出た。ここまで来れば、中央公園までは一本道だ。見渡したところ、誰も歩いていなかった。一台、車が私を追い抜いていったきり、辺りは再び静寂に包まれた。信号機が赤色の点滅だけを繰り返していた。

 公園まであと少しというところで、私は足を止めた。声がする。私の足音すらしっかり聞き取れる程の静けさの中、公園の方から声がする。私はゆっくりと近づいてゆき、公園の名前が刻まれている石碑近くの植え込みから、中の様子を窺った。

「げっ」

そう広くない公園の砂場。このクソ暑い最中に真っ黒なフード付きのコートを着た大人がみっちりと詰まっていた。さながら死神の集会だった。その中からひとり、死神の親玉みたいなのが出てくると、砂場の向かいにあるベンチに乗り、水晶玉のようなものを空へかかげ、何やら唱えだした。

「アンゴルモアの大王よ、アンゴルモアの大王よ。愚かなる我らを赦したまえ」

死神たちは一様に平伏した。

「許したまえー」

「来たる厄災を前に、我ら改心した人の子なり。手を取りノアの箱舟に乗れば二度と再び罪は繰り返さぬと誓うなり」

「誓うなりー」

「許したまえ、アンゴルモアの大王よ」

「大王よー」

「エイ、エイ、キエエエエ」

親分が奇声を上げるなり、死神たちは固まった。コミカルな筈のその光景に、私はちっとも笑えなかった。町内にはこんなにもヤバイ奴らが平気な顔をして歩いていたのである。噂は本当だったのだ。早くここから離れようとした足が、植え込みの溝にはまり、私は音もたてず尻餅をついた。ゆっくり起き上がり、再び様子を窺うと、死神のひとりと目が合った。途端、彼は大声をあげた。

闖入者ちんにゅうしゃだあ!」

「ひい!」

私は振り返ることもせず、全速力でその場から離れた。

「ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ」

目の前に見えてきたのはコンビニの明かり! 助かった! 私はそのコンビニに駆け込んだ。

「ラッシャッセー」

気怠い店員の声を聞くと、高まっていた動悸どうきが収まってゆくような気がした。私は雑誌のコーナーで立ち読みをする風を装って、死神たちが追いかけてこないかと観察していた。どうやら、大丈夫。何かあってもここなら助けてもらえるだろう。落ち着きを取り戻した私は、手にしていた雑誌をもとの位置に戻し、店内を歩き始めた。店内には照明も冷蔵の設備も整っていた。もっとも、陳列棚には空いているスペースも多く、完全な品ぞろえというわけでないことはひと目でわかった。仕方ない。物流だって、これまでと同じようにというわけにはいかないのだ。コンビニが営業できるくらい商品があるのが不思議なくらいだ。私は紙パックのカフェオレとアヒルグミを持ってレジへと向かった。

「お預りしまーす。袋はお付けしますかー」

「はい。お願いします」

「はーい」

ダウナー系だ。私は店に入った時からの疑問をぶつけることにした。

「あの」

「はい?」

店員の前髪の向こうの目が私を見た。

「なんで働いてるんですか? 世界が、終わってしまうかもしれないのに」

「あー」

店員は会計の手を止めて考えるように宙を見た。少しの沈黙の後、ダウナーらしく答えた。

「惰性っすね」

「惰性?」

「はい。世界に危機が近づいてたって、俺にはどうすることもできないし、別にやることもないし、惰性で緊急事態宣言の前の生活をしているだけです」

「へー」

相槌を打ちながらも、私は何処かに落ちなかった。そんなもんだろうか。

「そんなもんっすよ」

私の思考を読んだかのように店員が言った。

「世界の危機だなんだって言ったって、結局惰性で生きてる人間も多いっすよ。まあ、もちろん中にはイカれる奴もいるけど。そんなのは一部なんじゃないっすか。大多数は普段と変わんないと思いますよ。だからこそ、社会がまだ回ってるんじゃないっすかね。時間が経ったら、もっと、はっきりすると思いますけど。それまで世界があれば。四百八十五円っす」

「あ、はい」

私は慌てて財布を開け五百円玉を出した。

「十五円のお返しでーす」

「ありがとうございました」

「あ、お姉さん」

立ち去ろうとする彩花を店員が引き止めた。

「そういっても、ヤバイ奴らが居ることも事実なんで、気をつけてくださいね。隣の公園でヤバイ集会があったの、見たでしょう」

「……はい」

「たまに俺も参加してるんすよ」

「へ?」

私は思わずビニール袋を落とした。

「冗談っす」

店員は初めて笑顔を見せた。


 私はコンビニを出て、車道沿いに歩き、歩道橋の下までやってきた。コンビニで店員と話したのが夢のように思える程、辺りは寂しかった。歩道橋を上りきって、手すりから景色を眺める。幅の広い車道に、赤色点滅の信号、くしゃみ男の路地へ入る道、死神集団の公園にダウナー店員のいたコンビニ。全てが私の視界に入っていた。私はさっき買ったカフェオレの封を切って手すりに置いた。アヒルグミを食べる。レモン味。歩道橋からの景色は好きだ。なんでだろう。普段と視界が変わる、ちょっとした、非日常かな。怖くもあったけれど、出てきてよかった。父さんと母さんには悪いけど。ちょっとだけ、終末を前にした世界が分かった気がする。変なのもいたけど、概ねいつも通り。危ないこともなかった。やるじゃん、人類。そう思ったら、世界存亡の危機ってのも、案外あてにならないもののように思えてきた。ある日突然、政府の緊急会見かなんかが開かれて、あれは全部間違いでしたってなっても、不思議じゃない。

 カフェオレをひと口。苦い。グミの後だからかな。思考が切り替わる。でも、八十パーセントくらいの確率で、そのうち、世界は本当に終わってしまうんだろう。「そのうち」はいつだろう。今夜中か、明日か明後日か。せめて最期の日が分かればいいのに。そうしたら、私はその日、でっかい花束を持って世界を見送ってやるんだ。お疲れ様って。カフェオレの苦さにも慣れてきた。人類、頼むぞ。平常心だ。これ以上壊れてくれるなよ。ついでに、このまま鈍感になってくれ。明日終わるかもしれない世界でも、義務感も正義感も救済へすがることもなしにして、なんとなく生きてゆこうよ。ダウナーに。

 歩道橋の下を車が一台、通った。あっちへ行くと、国道に出る。国道……。そこまで行けば、海が見える。海……。スマートフォンで時間を確認すると、家を出てからまだ一時間と経っていなかった。時間は、ある。行こう。

 私はカフェオレを飲み干し、空いた容器をアヒルグミの袋に突っ込んで、歩道橋を、降りた。どうしようもなく、海が見たくなった。街灯に沿って、すれ違う人もいない深夜の街を私は走った。全速力で走った! 生きている、という実感が私を加速させて、その加速が生きている実感を引き起こした。私は、今、ここ数日で一番、生きていた。

 国道に出た時には、私は全身汗だくで、あがった呼吸のために肺が痛い程だった。夏に全力疾走など、するものではないと確信した。それでも、後悔はしていなかった。息を整え、高台になっている国道から海の方を見ると、港町の明かりが見えた。

 海は、暗くて見えない。しばらく海なんか見てない。どんな匂いだっけ。よし。浜辺まで行ってやる。私は腕まくりをすると、海へと続く下り坂を歩き始めた。昔、よく聴いていた世界の終末を描いた歌を口ずさみながら。

 終末なんてSFの世界に限られた話だと、ついこの間まで思っていた。きっと、私だけじゃない。世界中の皆が。でも、どうだ。三日前、その前提はあまりにもあっけなく崩れた。創作の中にしかなかった終末が、現実のものになった。終末が発表されたその日には、ネット上でいろんな情報が飛び交っていた。小惑星落下のタイムリミット、何処へ逃げれば生き残れるか、政府の発表は嘘だというデータ、これから起こる世界の荒廃の様子。悲観して自死に至った者も少なくなかったそうだ。きっと現実に多くの人が嘆き、悲しみ、怒り、放心したんだろう。でも、いまだに終末の実感がない人間も少なくない筈だ。私みたいに。なんで終わっちゃうんだよ。世界。もしかして、とふいに思い浮かんだ言葉があった。世界の自死。とんでもない筈の空想が、妙にしっくりきた。人間がおごり、世界を好き勝手したから、世界はそれを悲観して……いや。こんな考えが、そもそも人間の驕りだ。ごめん、世界。なんで世界が終わるかなんて、今の私たちには知り様がない。仕方ない。終末を受け入れて生きるしかない。

 そう思ったところで、ふと、私の思考は俯瞰ふかんへ移った。終末、海への坂道を下る女子高生。悪くない構図だ。まるでSFの世界そのものだ。口ずさんでいた歌では、結局終末は訪れなかったけど、私は今、その歌の世界観そのものに生きていた。妙な高揚感が生まれた。もし、私に少女という呼称がまだ適用できるなら、まさに、終末と少女だ。なんて素敵な取り合わせだろう。ニッシーなら、これで一曲作れそうだ。


 坂を下り切った私は、踏切を渡ろうとした足を止めた。アヒルグミとカフェオレの容器が入ったビニールが邪魔だ。

「どっかで捨てたいな」

私はすぐ近くにコンビニがあったことを思いだした。踏切を渡るのをやめ、アヒルグミを消費しながらそちらへ向かう。記憶の通り、直ぐコンビニの駐車場についた。しかし。

「電気、ついてないな。コンビニ、やってないのかな」

私は少しずつコンビニへ近づいてゆき、やがて、足を止めた。

「マジか」

窓ガラスは割れてこそいないものの、ひびだらけで、スプレー缶で悪趣味な落書きがなされていた。私は恐怖すら感じながらもコンビニに近づいた。中に人のいる気配は、無い。自動ドアの前に立つ。

「開くかな」

手をかけ、スライドさせると、ごとごとと音をたてながら、ドアは開いた。中に入り、スマートフォンのライトを起動した。商品棚は倒され、通路はほぼ無くなっていた。

「なんだよ、これ」

内部も至る所、落書きまみれだった。

 倒れた商品棚を足場にして内部を歩いていると、総菜コーナーに行き当たった。スパゲッティサラダを手に取ると、小さなかびが生えていた。レジの前には袋に入ったフライドチキンが落ちていた。拾ってみると、消費期限のらんは終末が発表された日だった。

「この日から、世界が変わった」

当たり前の事実が今更、実感を伴って湧き上がってきた。

私は、あることを直感し、レジの方へ歩き、ライトを向けた。果たしてレジスターは無残に変形していた。カウンターの中へ回って見ると、紙幣はいち枚も残されておらず、煙草の散乱する床に小銭が散らばっていた。

「これが、人間」

さっきまでの高揚感はすっかり消えて、人類に対する果てしない落胆だけが残った。肩を落とし、コンビニを出ようとした私は入り口の方を見て凍った。向こうに誰か立ってる。咄嗟とっさにスマートフォンのライトを消す。多分、無駄だった。入り口の自動ドアに入った亀裂のために、はっきりとは見えないが、その人物はこっちを向いている。私も、その人物も、しばらく動かなかった。その人物の影が雑誌コーナーの方へ動き、そこで腰を下ろした。

「どうしよう」

私は少しためらって、決めた。今しかない。サッと出ればいいだけだ。

 自動ドアに手をかける。開けて、出る!

「おい、あんた」

無視して歩けばいいものを、私はつい、立ち止まって振り向いてしまった。おじいさんだった。

「あんた、何しとる?」

「え?」

「ここで何しとった?」

おじいさんは何故だか、少し怒っていた。

「いや、違うんです。コレ、やったの私じゃなくて。私はただ、散歩の途中で通りがかっただけで……」

謎の釈明をしてしまった。

「ん? あんた、女の子か?」

おじいさんは立ちあがり、近寄ってきた。

「一応……」

「ひとりか?」

「……はい」

「こんな所にいちゃいかんぞ。危ない。見て分かるだろう? ここには悪いやからがたくさん寄り付く。それに、こんな時に、なんで散歩なんぞしとった?」

「ええと、世界がどうなってるのか、見ておきたくて……」

おじいさんは目を丸くして私を見ていた。

「妙な人だな」

そう言っておじいさんは少し、笑った。

「さ、お嬢さんは早くおかえりなさい。なんなら車で送ってあげよう。そうしなさい。今、家から車を――」

「いえ、大丈夫です。家、近いので直ぐ帰れます。それより、おじいさんは何してたんですか」

「そんなことより、早くお帰りなさい」

「私、世界が終末を前に、どうなってるか知りたくて散歩に出たんです。だから、教えてください」

「本当に妙な人だ」

おじいさんは観念したように、再び腰を下ろした。私も、少し離れた所に腰を下ろした。

「最近な、眠れんのだよ。七十年以上も生きたのに、まだ未練があるらしい。この世界にな。しかし、それ以上に不憫ふびんでならん。お嬢さんのように年若い人たちの未来がなくなることが。この店を見なさい。世界の終わりが発表されたその日、強盗にやられた。近所の悪ガキの仕業だったそうだ。若い人が未来をなくし、やけを起こして馬鹿なことをする。このままでは世界が終わる前に人間がどうにかなってしまう。だからな。悪ガキのたまり場になっとるここで、今日こそガツンと言ってやろうと思って来たんだ。世界が終わるとしても、人間の尊厳を捨てるな、とな。しかし、今日に限って悪ガキはおらず、お嬢さんを見つけたんだ。お嬢さんも、悲観して馬鹿なことをしちゃいかんよ」

私も、悪ガキには違いなかった。

「馬鹿なことは、まだそこまでしてないつもりですけど。おじいさん、どうすればいいんでしょう。私たちは」

「そうさなあ」

おじいさんは空を見上げた。もう、すっかり雲は晴れていた。

「人としての誇りを捨てず、大切な人を大切にする、ということだろうか」

「それは、難しいことなのかもしれません」

私は荒らされたコンビニを振り返ってそう呟いた。

「そう。確かに難しいことだろう。人類の心根は悪だと言う者も多い。しかし、世の中にたったひとりでも、世界が終わるその時まで善の心を持ち続けていたなら、人類に対して、私は絶望せずに済む。終わりが近づいた世界とは、醜く、荒廃したもののように思えるが、そこに一輪でも綺麗な花を咲かせたい。私はその日まで、この考えを貫き通して生きるつもりだ。もはや意地だな。ここまで来ると」

そう言って笑うおじいさんの顔は、学校一のイケメンと言われる清水君より、ずっとカッコよかった。いたんだ。世界の終末を美しく彩れる人類が! 私は夜の町に繰り出して良かったと心の底から思った。

「おじいさん。ありがとうございます。私、感動しました。私も咲かせます。花を」

おじいさんは照れくさそうに目線を落とした。

「さ、お嬢さんはそろそろ帰りなさい。家は近いのか?」

「はい、えーと、ここからすぐです」

「そうか。気をつけてな」

「はい。それじゃあ」

私はコンビニを後にした。少しためらってから、海岸の方へ。おじいさん、ごめん。海見たら、ちゃんと帰る。


「あ、ゴミ捨ててくるの忘れた」

気がついたのは踏切を渡ってからだった。ま、いっか。

 とうとう海の間近にやってきた。堤防の向こうで波の音が聞こえる。私は堤防に手をついて夜の海を眺めた。潮風がまともに吹いてくる。そう、これだ。これが海の匂いだ。遠くの浜辺に火が見えた。焚火たきび? キャンプファイヤー? こんな時間なのに、私以外にも人がいるんだ。再び目の前の海に視線を戻す。打ち寄せる波の音が輪郭をぼやけさせて響いていた。心臓に染み込むような音。波をもっとよく見ようと、私はスロープを降りて浜辺に近寄った。

 ?

 何か光った? まただ! 青い光が波間に見えた。私は思わず砂浜を歩き、波打ち際の近くまで歩いていった。街灯の少ない真っ暗闇の中、波打ち際はやっぱり光っていた。あ!

波打ち際の近くの水面を、青い光が尾を引いた。光は消えることなく、あちこちの水面をうろこのようにきらめかせていた。飛沫しぶきをあげて打ち寄せる波の間でも、発光していた。

「夜光虫だ!」

知っていた。この光の正体がプランクトンだと。でも、そんな事実がどうでもよくなるくらい、絶えず青白い光を放つ海は美しかった。言葉もなく、私はビニール袋をぶら下げたまま、ランダムに発光する幻想的な波打ち際を見つめていた。

 そのうち、その光が私を包んでいる世界に広がっていくような恍惚感こうこつかんが芽生えた。

“世界は終わる”

という音ではない声を、確かに聞いた。とうとう私もおかしくなった? でも、いいや。夜光虫の空間に漂っていることが心地よかった。

「みたいだね。なんで」

“寿命だ”

寿命と言われれば、どうしようもなかった。

「そ。お疲れ」

“私は憂えている”

「何を」

“人類の未来を”

「もう無いって。そんなの」

“終末を知った人類は壊れゆくだろう”

「確かに。そんなのも知ってる」

“物理的な終末よりも先に人類は壊滅するだろう”

私は少し、腹が立った。

「分かんないじゃん。そんなの」

“多次元宇宙でのサンプルはどれも同じ。悲惨な結末を迎えている。ここも同じだ”

「何言ってるか、さっぱり分かんないけど。この世界はそうならないよ」

“何故、そう言い切れる”

音の無い声が初めて質問した。

「私とあのおじいちゃんだけは、花を咲かせるから。人類なめんな」

声が噴き出したみたいな音をたてた気がした。

“そうか。頼んだぞ”

声はそれっきり聞こえなくなった。

 なんだったんだろう。世界の声、かな。それとも幻聴? どっちでもいいや。やっぱり、世界はこれからどんどんおかしくなっていくんだろうか。そうなっても全然不思議じゃないけど。

 夜光虫の海は必要以上に悲観しようとする頭の働きを抑えてくれた。私は両手で頬を叩いた。やってやる。他の皆がおかしくなったって、私はそうはならない。綺麗に終末を彩って、人類が案外悪くないもんだって世界に教えてやる。

「人類なめんなあああああ!」

私は夜の海に向かって、叫んでやった。

 見てろよ、世界。行くぞ、人類。

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