祈る者

 とある戦場の片隅。人々から見捨てられた町の教会で聖女が祈りを捧げていた。先日までは近隣の住民の避難場所となっていたその教会も、今や周辺の建物と同じように爆撃のために屋根が割れ、瓦礫の散乱する死骸と成り果てていた。祈りを捧げる聖女の耳に聞こえてくるのは砲弾や機関銃の音、そして爆撃機のうなりばかりだった。戦火の雑音の中、聖女は手を組み一心に祈り続けた。

 銃を構えた軍人たちが教会へと入ってきた。敵国の軍人ではなかった。彼らは聖女に近づき、銃を構えていた。隊長が前に進み、警戒したまま聖女に声をかけた。

「おい。何をしている」

「祈っております」

「祈り? なんのために」

「貴方がたの、幸いのために」

隊長は面白くなかった。何が祈りだ。それでなんとかなるならば、とっとと、この戦場をどうにかしてみせろ。そう、腹で毒づきながら軍人は軽蔑けいべつの視線を向け続けていた。

「貴様の祈りに何ができる」

「分かりません。何もできぬかもしれません。この祈りが何に結びつくのか、何をもたらすのか、私には語れません。しかし、私は祈らずにはいられないのです。誰かのために、貴方がたのために」

隊長の怒りが、軽蔑が、憎しみが互いに干渉しあい、激情の津波となった。

 隊長は辺りを見回し、教会内に人目のないことを確かめると、聖女に銃口を向けた。

「偽善者め。ふざけるな。俺はお前のような、なんの力もない者が理想を語る姿が大嫌いなのだ。そんな理想がなんになる。この世界を見ろ。力が全てなんだ。役立たずは、消えろ」

「軍人様。それは、貴方に向けられた言葉なのですよ」

真っ直ぐに隊長の瞳を見据みすえた聖女を、隊長はためらうことなく、撃った。銃弾が聖女の胸を貫き、彼女は絶命した。

 軍人たちは戦争が終わると、故郷に戻り、家族と抱擁ほうようを交わした。


 かつての聖女は今、音楽家だった。とはいえ、彼の音楽を聴くものは居なかった。つまり、売れていなかった。つまり、粗悪な音楽家だと、世間から冷ややかな目を向けられてさえいなかった。それでも、彼は作曲をやめなかった。ある日、友人が訪ねてきた。

「やあ。今日も作曲中かい? いつもいつも精が出るね」

友人は手土産に買ってきたパンやチーズ、ハムの入った袋を床に置いた。

「ねえ。どうだい。考え直さないかい。僕の紹介する就職口だからそう間違ったことにはならないはずだよ。これで君も自立できるだろう。ね? どうだい?」

「君が、いつも私のことを気にかけてくれているのは、よく分かっている。ありがとう。でもその件については以前と同じだよ。辞退する」

音楽家は作曲の手を止めずに言い切った。

「そう頑固じゃあ、話にもなんにもならないじゃないか。人間というのはね、自分の身は自分で立てなくちゃいけないんだ。僕が言うまでもなく、分かっているだろう」

「ああ。しかし、私にはそれ以上に大切なことがある」

「それが作曲ってわけ?」

「そうだ」

友人は困り果てて頭をいた。

「じゃ、どうだい、こういうのは。多くの人に受け入れられるような音楽を書くんだ。そうすれば、音楽で身を立てることができるじゃないか」

「嫌だ。受け入れられる音楽を書いたところで、それは私の音楽ではない。迎合するために音楽をつくるなんて言うのは不敬だ。私にはとてもできないし、やりたくない」

友人はとうとうため息をついた。

「君が音楽に大層、ご執心しゅうしんだってことは知っていたけれど、まさかここまでとは。興味本位に聞くんだけれど、君にとって音楽とはなんだい?」

「祈りさ」

「祈り?」

「そう。私が己の心に従って音楽をつくり続けていれば、いつか、誰かが聞いてくれるかもしれない。もし、誰も聞かなければ、その時はきっと、神が聴いてくださるだろう。だからこそ、誰かや神のために、不敬にならぬように音楽をつくり続けるんだ。それが、私の為すべきことなのだ」

友人はあっけにとられていた。そういった考えは誰しも心の片隅にしまっているものだとは知っていた。しかしそれをここまで馬鹿正直に信じている人間を、彼は初めて見た。

「なあ。それは立派な考えだけど、少し現実を見たらどうだい。それでうまくいくなんてのは一握りの人間さ。その他の人間はやっぱり、夢みることなんかしないで、無難に生きるしかないんだよ」

「止せ」

低く、鋭く、音楽家は声をあげた。

「そんなふうに世界を語るな。それは、君に向けられた言葉なんだぞ」

その日から、友人は音楽家に助言することはなくなった。音楽家はその生涯において“売れる”ことはなかった。


 かつての音楽家は田舎町でカフェを開いていた。お気に入りの、誰も知らないような音楽家のレコードをかけ、お客が来れば、珈琲をれる。長く続けたそれだけの生活に、彼は満足していた。

 扉が開き、見慣れない一人の若者が入ってきた。しわのついたシャツに蓬髪ほうはつ、目の下の濃いくま。荷物は何もない。多くの客に接してきた店主は、直感的に“これはただ事ではない”と直感した。この店から少し歩いた場所にある海に面した断崖。そこでから飛び降り、命を散らせたものがひとりやふたりではないと、彼は知っていた。

「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」

客の居ない店内であったものの、店主はわざとカウンター席へと、彼を誘導した。誘導してみたものの、店主は口下手で、若者になんと声をかけるべきなのか、分からなかった。若者はカウンターに掛けると、しばらくうつむいたままだった。

「珈琲をお願いします」

「かしこまりました」

きっと、若者は穏やかで優しく、繊細なのだろうと店主は直感した。こんな人を死なせていい筈がない。しかし、見ず知らずの人間に説得されたところで、若者は意思を容易く曲げることがないだろうと、簡単に予想できた。

 どうか思いとどまってくれ。世界はきっと貴方を祝福する。優しいあなたに幸せが訪れますよう。ミルで豆をき、サイフォンで珈琲を淹れる間、店主は祈り続けていた。若者は手を組み、何か考え込んでいた。

「お待たせしました」

若者が珈琲をひと口。長い息をついた。宙を見つめていた彼はぽつりと語った。

「この音楽。いいですね」

「名の知られていない作曲家のつくった曲です。難しいことは分かりませんが、私はとてもこの曲が好きでしてね」

「そうですか」

若者はもうひと口、珈琲を飲んだ。

「良かった。最後にこんないい場所に来られて」

“最後に”と、確かにそう言った。店主は一世一代の機転を利かせて嘘をついた。

「お客様。実はこの店、今日で閉店なのです」

「え」

若者の暗い瞳が初めて店主を捉えた。

「お客様。今、どう感じましたか」

「え? えっと。残念だなって。こんなにいい場所なのに」

「ありがとうございます。ということは、まだ終わってほしくないと、思っていただけたということですか」

「はい。きっと、ここを求めている人は大勢いる筈です。ちょっと、偉そうな言い方ですけど」

「いえいえ。ありがとうございます。しかし、お客様」

「はい」

再び若者と目が合った。

「今の言葉は、お客様に向けられている言葉なのですよ」

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