第8話

 篁と阿母あもにそっくりな男たちは、腰に佩いていた刀を抜くとふたりに斬り掛かってきた。

 偽物の篁は阿母へ、偽物の阿母は篁へとそれぞれに斬り掛かっていく。

 篁と阿母はそれぞれに刀を抜くと、その刀を受け流した。

「なんなの、どうなっているの」

 入り乱れる四人を見ながら真己未が困惑の声をあげる。

「あら、お嬢さん。貴女あなたは何というお名前かしら」

 大柄な女が真己未に問いかける。女に問いかけられると不思議と勝手に口が動き、自分の名前を告げようとしてしまうのだ。

「わたしは……ふじわらの……」

「ふじわらの?」

「まき……」

 そこまで真己未が言い掛けた時、シャンという鉄と鉄がぶつかり合う甲高い音が響いた。

 まるで心の奥底まで響いてくるような不思議な音。

 それが二度、三度と聞こえてくる。

「何なのよ、邪魔をするのは誰かしら」

 大柄な女は苛立ったような口調で言うと目をキョロキョロと動かして音の出元を探った。

 すると低く太い男の声が聞こえてきた。その男の声はまるで大地を揺るがすように響き渡る声だった。

「誰じゃっ!」

 叫ぶように大柄な女が言う。

愚者ぐしゃよ。拙僧はお前に名乗るような名前は持ち合わせてはおらぬ」

 闇の中からぼんやりとした光と共に姿を現したのは、笠を被ったひとりの僧侶だった。

 僧侶は片手に錫杖しゃくじょうを持って立っていた。

 篁にはその僧の姿に見覚えがあった。

「あれは……」

 その僧の名を篁は呼ぼうとしたが名前が呪となるということを思い出し、それを思いとどまった。

 間違いなくその僧は空海くうかいであった。

「愚者よ、いまなら見逃してやることもできなくはないぞ」

 人差し指で笠を持ち上げ、空海は大柄な女のことをじっと見る。

 その空海の鋭い眼光に大柄な女は少したじろいたような顔を見せたが、すぐに表情を戻した。

「ふん、僧などに何ができるというのじゃ」

 大柄な女はそう言うと、再び大きく開けた胸元から人の形を模した紙を取り出す。その紙に女が息を吹きかけると紙はひらひらと地に舞い落ちる。すると不思議なことが起きた。落ちた紙が黒く染まり、そこから黒冥禍たちが姿を現した。次から次へと現れる黒冥禍たちは、この女が生み出していたのだ。

「黒冥禍たちよ、やっておしまい」

 そう女が言うと、黒冥禍たちは空海を取り囲むようにして近づいていく。

「愚か也、愚か也。まさに愚者よのう」

 空海はそう言うと錫杖を強く地へと叩きつける。

 シャンという鉄と鉄がぶつかる甲高い音が響き渡ると同時に、黒冥禍たちが一斉に空海に殺到しようとした。

 風が吹いた。そう思えるかのように、黒冥禍たちはその場から吹き飛ばされた。いや、吹き飛ばされたというよりも弾き飛ばされたといった方がよいかもしれない。そして、弾き飛ばされた黒冥禍たちはまるで身体が蒸発していくかのように消えてしまった。

 空海は密教の真言を唱えていた。その真言の力が黒冥禍たちを消し去ったのだ。

 真言は空海が海を渡った向こう側にある大陸の国、唐より持ち帰ったものだった。本来であれば数十年掛かると言われた密教の修行を空海はたったの三年で習得し、その密教と自らが編み出した真言を混ぜ合わせて、真言密教として空海は新たなる仏教の道を切り開いていた。

「おのれ……」

 あっという間に黒冥禍たちを消されてしまった大柄な女は悔しそうに言うと空海のことを睨みつける。

「おい、愚か者よ。お前はどうする。素直に帰りなさるか」

「このように強い力を持つ者。お前は東寺の空海であろう。違うか」

「ああ、そうじゃ。拙僧は空海なり

「ふふふ、愚かなのはお前のほうじゃ、空海。名を聞いたぞ、はお前の名を知ったぞ」

「それが何だというのだ。拙僧はお主に名を知られたところで呪などには掛からんわい」

 空海はそう言うと、口の中で真言を唱えた。

 すると地面の中から無数の腕が伸びだしてきて、女の足や腕を捕まえて、押さえつける。

「あなやっ!」

「愚か也、愚か也」

「貴様、許さんぞ、許さんぞ、空海っ!」

 女が叫ぶようにして言うと、女の頬の辺りの皮膚が破け、そこから新たに眼が現れた。女は四つ目となり、さらには口が大きく裂けていく。その姿はもはや現世のモノではなかった。

「やっと正体を現したか。そうじゃ、お前は何という名なのだ、愚者よ」

「我は……土蜘蛛。冥府のモノじゃ」

 そう女は言うと着物の中からさらに四本の腕を出し、身体を変化させていく。女が着ていた着物はビリビリに破け、白い肌があらわになったかと思うと下半身は肥大化していき、上半身は女の身体で下半身が蜘蛛という何とも不気味な姿を現したのだった。

「やっと正体を現したか。土蜘蛛よ、なぜ現世うつしよに姿を現すのだ。ここはお前らの住処ではなかろう」

「何を言うか。我を呼び出したのは、お前らの方であろう」

「なんと、呼び出されたというのか」

「そうじゃ。呼び出されねば、このような場所へわざわざん」

 呼び出した。それは誰かがこの土蜘蛛を現世へ召喚したということを指していた。そういえば、阿傍あぼうが現れた時も同じようなことを言っていたはずだ。あの時は、源潔姫の女房であった小夜が生贄を捧げて阿傍という化け物を召喚してしまった。今回も、誰かが何かの目的で土蜘蛛を召喚したということなのだろうか。

「では、帰れ」

 空海はあっさりと土蜘蛛に言った。

 その言葉が意外だったのか、土蜘蛛は一瞬返答に困ったような表情をしてみせる。

「ほれ、さっさと帰れ。帰らぬというのであれば、土に還すまでだぞ」

 空海のその言葉に土蜘蛛は慌てた様子で口を開いた。

「そこまで言うのであれば、我は帰ろう。だが、我を召喚した者との契約が残っておるのじゃ」

「意外と律儀な奴じゃな。そんなものはどうでも良いだろう。さっさと帰るが良い」

 本当に帰っても良いのだろうか。そんな迷いを土蜘蛛は見せたが、空海がいつでも真言を唱えられる状態にあることは間違いなかったため、すぐに迷いを捨てて土蜘蛛は闇の中へと消えていった。

 土蜘蛛が姿を消すと、急にあたりが明るくなった。まるで時間が戻ったかのように、西の空には夕日があり、空を朱に染めている。

「これはどういうことなのでしょうか、空海様」

 何が起きているのかわからないといった口調で篁は空海に尋ねた。

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