第6話

 突然、篁と真己未の周りを囲んでいた黒冥禍の一角が崩れだした。

 何事かと思い、篁がその方へ目を向けると、赤い光がこちらに向かって近づいてきているのが見えた。

 それは両手に松明を持った小柄な男だった。顔の下半分は真己未がしていたように布作面で隠されている。黒冥禍たちは松明の炎を恐れているようで、男から逃げるようにしていく。その逃げていく黒冥禍の姿を見た男は松明の柄を口に咥えると、腰に佩いていた毛抜形蕨手刀けぬきがたわらびてとうと呼ばれる蝦夷の刀を抜き黒冥禍たちのことを斬りつけていく。

 近づいてきた男は松明を地面に置くと、毛抜形蕨手刀を頭上で振り回しながら叫び声をあげた。

「乙姫様っ!」

阿母あも。来てくれたのね」

 真己未はその声に答えるように男に手を振って見せる。

 それを見た男は周りにいた黒冥禍たちを遠ざけると、篁と真己未のいる場所へとやって来た。

「ご無事でなによりです。帳が降りても、乙姫様が帰ってこなかったので心配になり、迎えに参った次第です」

「ありがとう。阿母」

 阿母と呼ばれた小柄な男は刀を腰に収めると、真己未に深々と頭をさげた。

「再会の喜びをしているところ、申し訳ないのだが、この窮地をどのように脱すればよいのかな」

 篁は少しだけ自分たちへの包囲網を緩めた黒冥禍たちのことを見つめながら、男に問いかけた。

 男はちらりと篁のことを見上げるようにして見た後、真己未へと話しかける。

「乙姫様、こちらは?」

「小野篁殿です」

「なんと。この方が、小野篁様……失礼いたしました」

 阿母は再び篁のことを見上げるようにして言う。

「私のことをご存知なのか?」

「ええ、よく乙姫様より」

 そう阿母が言うと、真己未は咳払いをした。

 どういうことだ。以前から、真己未は私のことを知っており、周りに話をしていたということなのか。篁は困惑した。

「それよりも、いまはこの場を脱しなければなりません。阿母、どうすれば良いのですか」

「とりあえず松明の灯りがあれば、奴らはこちらには近づいてくることはできません」

「では、このまま東寺へ向かえば良いのか?」

「東寺?」

「先ほど、東寺が光り輝いている姿を屋根の上から見たのです」

「なるほど。では、その東寺という場所へ向かいましょう」

 阿母はそう言うと真己未に自分の持っていた松明をひとつ手渡した。

 黒冥禍たちは松明の灯りに怯えて近づいてくることが出来なくなっており、道が開けていく。

 松明をかざして阿保が道を作っていくと、その後についていきながら、真己未は阿母について説明をはじめた。

 阿母は、真己未の家に仕える蝦夷出身の男だった。普段は真己未の従者をしているそうだ。真己未の顔に魔除けの化粧を施したのも阿母であり、阿母は様々な蝦夷のことなどを真己未に教えているのだという。

 蝦夷が仕える藤原氏とは一体何者なのだろうか。篁はふと考えてみたが、思い当たるような人物は誰もいなかった。

「そういえば乙姫様、魔除けの化粧は?」

「ああ、走ったりしたので、汗で消えてしまったようです」

「それならば、もっとしっかりとした紅で描けばよかったですね」

「でも、消えなかったら困ります」

「確かにそうかもしれませんな」

 阿母は笑いながらそう言うと、急に立ち止まった。

「どうしました、阿母」

「この先にとんでもないのがいるようです」

「とんでもない?」

「ええ。先ほどまでいた黒冥禍たちとは比べ物にならないような化け物が……」

 そう阿母が言い終わると同時に地響きのようなものが聞こえてきた。

 姿を現したのは、篁よりも頭一つ大きな黒冥禍だった。他の黒冥禍たちと違うのは身体の大きさだけではなかった。額の真ん中あたりには鋭く尖った角が生えている。その姿は幼き頃に寺院で見た絵巻物に描かれていた鬼に似ていた。

「これは鬼なのか?」

 腰に佩いた太刀に手を伸ばした篁は阿母に問いかける。

 阿母は首を横に振る。

「わしも初めて見ました。何なんだ、これは」

「こいつを倒さないと、東寺へは行けぬようだな」

「篁様、乙姫様を守ってくだされ。ここはわしが」

 阿母はそう言うと、顔の下半分を隠していた布作面を剥ぎ取った。

 そこには真己未がしていたように紅で大きな口が描かれていた。ただ真己未と違うのは大きく描かれているのは口だけではなく、目の下や鼻の周りにも何かの模様が描かれていることだ。

 にやりと笑みを浮かべた阿母は、何やら不思議な言葉を何やら呟きはじめた。その言葉に篁は聞き覚えがあった。それは蝦夷の言葉、夷語いごである。

 すると不思議なことがおきた。小柄な男だと思っていた阿母の姿がひと周り大きくなったように見えたのである。阿母は上半身の着物を脱ぐと、筋骨隆々な肉体を出した。その肉体にも、何か模様のようなものが描かれていた。

 大黒冥禍と阿母がぶつかる。それは相撲節すまいのせちで見た力士同士のぶつかり合いに似ていた。

 阿母が吠え、大黒冥禍の腕を取る。

 肉と肉がぶつかる音。そして、骨の軋む音が聞こえてくる。

 さらに阿母が吠えると、阿母の身体に描かれていた模様が蒼く光りはじめた。

 悲鳴に似た声。それは大黒冥禍の口から漏れてきたものだった。

 そんな阿母と大黒冥禍のぶつかり合いに目を奪われていると、真己未が篁の袖を引っ張った。

「どうかされたか?」

「篁様……囲まれています」

 その言葉に周りを見回すと大勢の黒冥禍が篁と真己未の周りを取り囲んでいた。

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