第5話
「お待ち下さい、篁様。これは蝦夷に伝わる魔除けの化粧なのです。唇の周りに紅を塗って口を大きく見せることが魔除けとなるそうで」
「そ、そうなのか。私はてっきり……」
太刀の柄から手を離した篁は、自分の誤解を正直に真己未へ伝えた。
すると真己未はクスクスと笑ってみせた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのに」
「いや、こちらこそ、すまなかった」
篁は真己未に頭を下げながらも笑い続ける真己未の顔を見て「どこが口裂け姫なのだ。可愛らしい女性ではないか」と思っていた。
そんなひと時も、つかの間。黒冥禍たちが篁と真己未の存在に気づき、屋敷の周りに集まってきていた。
「まずいな。どうすれば良いか……」
「とりあえず、黒冥禍たちはここへは上がっては来られません」
「しかし、いつまでもここにいるというわけにもいかないだろう」
「そうですね」
ふたりでどうするべきか考えていると、どこからか風に乗って鈴の鳴るような甲高い音が聞こえてきた。
その音が聞こえてきた方向へ篁たちが目を向けると、闇の中でその一角だけが光り輝いているかのように見える建物が存在した。
「あれは……」
その方角に存在する建物。それは東寺であった。東寺は嵯峨帝より空海が賜った寺院であり、現在は真言密教の道場として使われている。
「東寺まで行ければ何とかなりそうだな」
「しかし、東寺までの距離は……」
「真己未殿は走れるか?」
「え、まあ、人並みには」
「では、走りましょう」
「え?」
篁はそう言うや否や屋根から飛び降りた。
困惑する真己未に対して、篁は下で手を広げて真己未が飛び降りてきたら受け止められる用意をしている。
もう、どうにでもなれ。真己未は意を決して、屋根の上から飛び降りた。
屋根の上から降ってきた真己未のことを篁はしっかりと受け止める。
「篁様、ありがとうございます」
恥じらいながら真己未が篁に礼を述べる。
しかし、その間にも黒冥禍たちは篁と真己未が屋根から降りたことを察知し、ふたりの居る場所へと近づいてきていた。
「さあ、走るぞ」
篁はそう言うと、真己未の手を取り走り出す。
多くの黒冥禍たちが篁たちの後を追いかけてきたが、黒冥禍たちの動きが遅いお陰で篁たちは何とか逃げ切ることが出来た。いくつかの辻を越えたところで、篁は自分の腕がひどく重く感じて振り返った。
「も、もう走れません、篁様」
篁に手を引かれながら必死に走ってきた真己未が、息を切らせながら言う。
手を離すと真己未は膝に手をついて息を整える。
いくつか辻を越える時にも、辻の影から黒冥禍たちがこちらへ向かって進んでくる姿が見えていた。
もはや洛中は黒冥禍で溢れかえっているということなのだろうか。
ここであまりのんびりしている暇はないかもしれない。篁はあたりを警戒しながら、真己未のことを見ていた。
真己未の頬まで伸びた紅は、ほとんど消えている状態だった。もう口裂け姫はどこにもいない。居るのは、藤原真己未という名の可愛らしい女性だ。
「篁様、回復しました。行きましょう」
「無理はなさるな、真己未殿」
「大丈夫です、早く行かなければ黒冥禍たちが迫ってきてしまいます」
「そうだな。急ごう」
ふたりはまた走り出した。
しかし、篁たちはすぐに足を止めることとなってしまった。
目の前に大勢の黒冥禍がいるのだ。道は完全に塞がれている。
道を変えようと踵を返したが、すでに背後にも黒冥禍たちが集まってきていた。
近くに逃げれるような屋敷もなかった。あるのは竹林だけである。しかも、その竹林の中からも黒冥禍たちが姿を現している。
「万事休すか」
篁は呟くように言うと、腰に佩いた太刀へと手を伸ばした。
黒冥禍相手に太刀が通じるかどうかはわからなかった。ただ、何もせずに奴らに喰われるくらいならば、せめて抵抗くらいはしてやろう。それに、真己未を守らなければならないという気持ちが篁にはあった。
「篁様、わたしは自分の身くらいは自分で守れるつもりでおります」
真己未はそう言うと着物の裾をまくり、その白い足をむき出しにした。
「わたしのことは気にせず、お戦いください」
その真己未の言葉に篁は無言で頷くと、太刀をゆっくりと抜いた。
真己未がどのように黒冥禍と戦うつもりなのかはわからなかった。だが、篁もいまは未知なる黒冥禍という相手をしなければならないという気持ちで一杯一杯だった。
篁は口の中で真言を唱えると、息を腹の奥そこから吐き出して、太刀を構えた。
先に動いたのは、真己未の方だった。
真己未は近づいてきた黒冥禍に素早く近寄ると、足を振り上げるようにして黒冥禍の顎の辺りを蹴飛ばした。その動きは洗練されたものであり、どこか踊っているかのようにも見えた。
黒冥禍のことを蹴り飛ばした真己未は落ちていた長い竹の棒を手に取ると、その棒を振り回して次々と黒冥禍の頭を叩いていく。不思議なことに頭を叩かれた黒冥禍はその場で動きを止めて、砂の山が崩れるかのようにその身を闇の中へと消していくのだった。そのことを真己未が知っていたかどうかはわからないが、真己未は鮮やかな動きで次から次へと黒冥禍の頭を竹の棒で叩いていった。
そんな真己未の動きに見とれている場合ではなかった。篁も太刀を振るい、黒冥禍へと斬り掛かっていく。太刀が黒冥禍に触れると、人を斬った時と同じような感触があった。黒冥禍は得体のしれないもののけではあるが、元は人間であったはずだ。本当であれば人など斬りたくはなかった。しかし、いま目の前にいるのは人ではなく黒冥禍というもののけなのだ。斬らなければ、こちらが喰われてしまう。だから、余計な感情は不要だった。
篁と真己未は次々と黒冥禍を片付けていったが、数が多すぎた。次第にふたりは疲れて、動きが鈍くなってきていた。
「切りが無いな」
「どうしましょうか、篁様」
お互いに背中合わせとなりながら、ふたりは言葉を交わす。
すでにふたりの周りは黒冥禍たちに取り囲まれていた。
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