第4話

 阿鼻叫喚とは、まさにこのことであった。

 次から次へと黒冥禍こくめいかは人々を襲い、多くの人が倒れていく。

「大丈夫か」

 篁は目の前で倒れた若い男を抱き起こそうとしたが、様子のおかしさに慌ててその男から離れた。

 黒冥禍に襲われた人間はその場で気を失うかのように倒れてしまうが、しばらくすると皮膚が剥がれ落ちていき、その剥がれた皮膚の内側から黒い液体のようなものが溢れ出してくる。その液体は襲われた人を飲み込み、黒冥禍の姿へと変えてしまうのだった。

 いま篁たちの目の前で倒れた若い男も、もがき苦しむかのように自分の身体の皮膚を掻きむしり、破けた皮膚から流れ出てきた黒い液体に包みこまれていった。そして、しばらくするとその姿が黒冥禍に変わり、むくりと起き上がると周りにいた人間へと襲いかかっていく。

 このままではいずれ自分たちも黒冥禍に襲われる可能性があった。ここは大勢の人々で賑わっている東市である。このまま黒冥禍が増えていけば、たちまちこの辺りは黒冥禍だらけになってしまうだろう。

 どこか逃げれる場所はないだろうか。篁は人々よりも少し高い視線であたりを見回した。

「篁様、こちらへ」

 そう声を掛けられ、篁の手が引かれる。

 布作面の女性は塀を見つけるとそこへ軽々と飛び乗り、篁にも登るように促した。

 篁は塀の屋根に手をかけて上に登ると、塀伝いに続く屋敷の屋根へと飛び移る。そこは誰かの屋敷のようだったが、いまはそんなことには構ってはいられない。

「もう大丈夫です。奴らは登ってはこれません」

「そうなのか。助かった。それにしても何なのだ、この黒冥禍という連中は」

「あの……篁様」

 布作面の女性は篁の目をじっと見つめる。

「どうしたのだ」

「あ、あの、お手をお離しくださいませ」

「ああ。すまぬ」

 篁は慌てて握っていた女性の手を離した。塀に飛び乗り、屋根へと飛び移る際に手を握ったのがそのままだったのだ。

貴女あなたには聞きたいことが山ほどある」

「わかっております」

「まずは貴女の名前を聞かせてはもらえぬだろうか。それとなぜ私の名を知っているのかも」

「わかりました」

 彼女はそう言うと目を細めるようにして篁のことを見つめた。

「私は、真己未まきびと申します。氏は藤原です」

「真己未殿と申されるのか。それで私のことは、なぜ」

 彼女の口から真己未という名前を聞いても、篁には心当たりがなかった。氏は藤原だというが、藤原氏の人間など大勢いる。問題はどこの藤原なのかということだろう。

 この時代、藤原氏は朝廷の重臣から歌人に至るまで藤原氏が溢れていた。石を投げれば藤原に当たる。そういっても過言ではないくらいに、藤原氏の者が大勢いるのだ。そんな藤原氏のはじまりは藤原鎌足かまたり中臣鎌足なかとみのかまたり)からはじまる。大化の改新でその武功を称えられた中臣鎌足は、帝(天智てんじ帝)となった中大兄皇子なかのおおえのおうじから藤原氏の名を承る。そこから藤原氏がはじまるのだった。

 現在の朝廷でも多くの藤原氏が存在している。朝廷内で出世争いを繰り広げている藤原氏の者たちは藤原四家ふじわらしけと呼ばれ、そのはじまりは藤原不比等ふひとの息子である四兄弟たちにあった。長男武智麻呂むちまろの藤原南家なんけ、次男房前ふささきの北家、三男宇合うまかい式家しきけ、四男麻呂まろ京家きょうけが藤原四家であり、その家名の由来は、武智麻呂の館は南にあるから南家と呼ばれ、房前の館は北にあるから北家と呼ばれる。宇合は式部卿であったことから式家と呼ばれ、麿は左京大夫であったことから京家と呼ばれたそうだ。

 朝廷内では、そんな藤原四家の末裔たちが出世争いを繰り広げており、右大臣冬嗣は藤原北家、大納言緒嗣おつぐは藤原式家であり、ふたりとも若い頃から出世争いを続けてきていた。

 それ以外にも藤原氏はたくさんおり、朝廷に仕えるものの半分くらいは藤原氏なのではないだろうかと思えるし、朝廷に仕えていないものであっても藤原氏はたくさんいた。

 そのため、藤原氏と名乗られても、どこぞの誰の娘であるかなどといったことは、すぐにはわからない。それを逆手に取って、真己未が自分の家柄について隠す手として使っている可能性も考えられ、篁は訝しげな表情を浮かべていた。

「篁様の名前を知ったのは偶然でございます。貴方様のように背の大きな方は目立ちます。ちょっと聞いてみたらすぐに、貴方様の名前がわかりました」

「そうであったか」

 篁は苦笑いを浮かべた。確かにこの大きな体では目立っているだろう。それが良い時もあるが、悪い時もある。今回は良いことであるという風に考えるようにしよう。篁はそう思いながら、次の疑問を口にした。

「黒冥禍については、蝦夷の人間から聞いたと言っていたな」

「はい。わたしの父に仕える者に蝦夷出身の者がおります。その者から色々と教わりました」

「黒冥禍は蝦夷に伝わる邪のモノなのか?」

「いえ、違うと思います。その蝦夷の者も平安京たいらのみやこに来てから見るようになったと申しておりましたので」

「そうか。平安京ここに現れるモノなのか」

 篁はそう口にしながら、確かに陸奥国にいたころは黒い渦などは見なかったし、黒冥禍などという存在も見たことも聞いたこともなかったと思い出していた。

「なぜ、黒冥禍の姿は私や真己未殿にしか見えないのだ」

「それはわかりませぬ。ただ、わたしは幼き頃より、といったモノの存在がわかる子どもでした」

「それは私も同じだ」

「やっぱり」

「ああ。だが、黒冥禍のようなモノを見たのは初めてのことだ」

「わたしも話には聞いておりましたが、その存在をこの目で見たのは初めてのことです」

「どうすればよいのだろうか」

 篁は屋根の上から東市を見下ろしながら考えた。

 東市からは人の気配が消えていた。ただ大勢の黒冥禍の姿は見えている。

 西にあった日が沈み、帳が降りようとしていた。

 夜になったら、黒冥禍たちはどうなるのだろうか。闇とともにその姿は消えてしまうのだろうか。それとも何か別の形となってしまうのだろうか。

 この先、どうなるかわからいという不安に篁は押しつぶされそうだった。

「篁様、これを持っていてください」

 真己未はそう言うと着物の懐から一枚の紙を取り出して篁に差し出した。

 その紙には朱色の墨で何やら読めない文字が書かれている。

「これは?」

「蝦夷に伝わる魔除けの札にございます」

「しかし、これを私がもらってしまっては真己未殿が……」

「わたしは大丈夫です。ほら」

 真己未はそういうと顔の下半分を隠すようにしていた布作面を取ってみせた。

 するとそこには大きく裂けた口が存在していた。

『口裂け姫の話はご存知かな、篁殿』

 篁の脳裏に春津から聞いた話が蘇ってくる。やはり、真己未が口裂けの姫だったのだ。すべては罠だった。黒冥禍で自分のことを誘い出し、最終的には口裂けの姫として喰らおうと考えていた。私としたことが、つい気を許してしまった。なんとも情けない。

 篁は己の愚かさを後悔しながらも、最後の抵抗を見せてやろうと腰に佩いている太刀へと手を伸ばした。

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