第3話
そこに立っていたのは、小柄な若い女性だった。
女性は着物の袖で顔の下半分を隠すようにして、篁に声を掛けてきた。
先ほどからずっと後ろをついてきていた気配の
なぜ自分が後を追われないといけないのだろうか。篁は困惑をしながら、女性が次の言葉を発するのを待った。
「いつぞやは、ありがとうございました」
そう女性は言ったが、篁はこの女性が何処の誰だかわからずにいた。
困った顔をした篁に気づいたのか、女性は顔を隠していた袖をどけて見せる。
するとそこには顔の下半分を覆うような布作面が付けられていた。
「あ……」
その布作面を見た時、篁は女性のことを思い出した。何日か前の夜に空から降ってきて助けた女性である。
「思い出していただけましたか」
「いつぞやの……」
「あの時は助けていただきありがとうございました」
「足の方は大丈夫でしたか」
「ええ、篁様のお陰でなんともございません」
女性は笑うような声で言う。しかし、布作面のせいで口元は見えず、本当に笑っているのかどうかはわからなかった。
「それは良かった。では……」
篁はそう言って、その場から立ち去ろうとしたが、そこで足を止めた。
なぜ、彼女は自分の名前を知っているのだろうか。確かに、篁様と自分のことを呼んだはずだ。
振り返りそのことを彼女に尋ねようとした篁は、目の前で起きている奇妙な光景に出しかけていた声を飲み込んだ。
彼女の背後に立っていた年老いた男の頭上に、あの黒い渦が見えたのだ。
そして、その渦の中から奇妙な青黒い腕が伸び出てきて、老人の頭に掴みかかるのが見えた。
老人はそれに気づいていないのか、その腕にされるがままとなっており、黒く鋭い爪が老人の皮膚に食い込んでいく。
「どうかされましたか、篁様?」
その言葉で我に返った。
篁は慌てて彼女の手を引くと、自分の方へと引き寄せる。
あまりにも突然のことで、彼女は何がなんだかわからないといった表情をしたが、篁に抱きとめられた時に怯えた声を発した。
「う、渦から腕が……」
「なんと、貴女にも見えるのか」
篁は驚きの声をあげた。驚いたのは篁だけではなかった、女性の方も驚いた顔をしている。
「篁様にも見えるのですか」
「ああ、見える」
その黒い渦はふたり以外には見えていないようで、周りにいる人々は何事もないかのように買い物をしたりしている。
「あれは死を司る渦です」
「死を司る……」
確かにあの渦が見えた時、その渦が頭上にあった人間は必ず死んでいた。渦の正体を彼女は知っているということなのだろうか。もし、知っているのであれば、教えてほしい。篁はそう思い、彼女のことを見た。
「なにか、様子が……」
彼女がそう言い、篁も釣られるように渦の方へと目を向ける。
黒い渦から出てきているのは腕だけではなかった。黒い人。それはまるで影が実体化したかのような存在だった。しかし、影とは違い、目や鼻、口の存在があるのがわかる。今まで数多くのもののけやあやかしといった存在を見てきた篁も、この黒い人のようなものを見たのは初めてのことだった。
「何が起きているというのだ」
「あれは……」
彼女が目を大きく見開いて驚きの声をあげる。
「知っているのか」
「見るのは初めてですが、聞いたことはあります」
「何なのだ、あれは」
「あれは……
「黒冥禍?」
「はい。
「貴女は蝦夷なのか?」
「いえ、そうではありません。私に仕える者で蝦夷の者がいて教えてくれたのです。逃げましょう、篁様」
彼女は篁の手を引き、その場から移動しようとしたが、足を止めた。
篁たちの目の前には信じられない光景が広がっていた。
東市に多くの渦が姿を現し、その渦の中から黒冥禍たちが次々と出てきているのだ。
その姿は篁たちにしか見えないのか、東市にいる人たちは普段どおりに買い物をしたりしている。
しかし、すぐにその様子は一変した。
ひとり、またひとりと黒冥禍に襲われた人々が、その場に倒れたのだ。
「あなやっ!」
「検非違使を呼べっ!」
すぐにその恐怖は人々に伝染していく。恐怖に支配された人々はあらゆる方向に移動しようとして、人と人がぶつかり、またそこで混乱が生じる。
そして、そんな人間たちを嘲笑うかのように黒冥禍たちはひとりずつ、ゆっくりと襲いかかって行くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます