第2話

 とんでもない秀才が現れた。

 そんな噂が大学寮の文章生たちの間で話題となっていた。

 その秀才というのは、弾正だんじょう大弼たいひつである菅原すがわらの清公きよきみの四男である是善これよしのことであった。是善は幼い頃から聡明で才知があると噂になっていたが、嵯峨帝に呼ばれ書を読み、漢詩をしたというのだ。

 大学寮の者であっても、嵯峨帝の前で書を読んだり、漢詩を賦すといったことが出来る者は、ごく一部に限られている。それを大学寮に通える年齢に達していない是善が行ったというのだから、大学寮で噂になるのは当たり前のことだった。

「きっと大学寮に入れば、すぐに文章得業生となれるだろうな」

「あっという間に抜かれてしまうぞ。これはうかうかしてられぬな」

 この時、菅原是善は十一歳であり、大学寮に入れるは十三歳からと聡令そうれいで定められている。

 文机に向かい書をしたためていた篁は、他の文章生たちの会話に聞き耳を立てながらも、その会話には混ざろうとはせずにいた。

 あの男は変わり者だ。大学寮内で、そう陰口を叩かれていることは知っている。それは自分の才能に対しての嫉妬だということもわかっていた。篁も同じように嵯峨帝の前で書を読み、漢詩を賦したことがあった。大学寮には多くの貴族の子息たちが通っている。中には才もなく、ただ上級貴族の子息だからという理由で通っている者もいるのだ。そういった者たちとの馴れ合いは御免だ。篁はそう考えていた。

 ただ、菅原是善の話については気になっており、つい聞き耳を立ててしまう自分がいることも確かだった。

 菅原是善のことは、何度か洛中で見かけたことがあった。そうか、彼は秀才か。いずれ話をしてみたいものだ。篁はそんなことを思いながら、書を認め続けた。

 大学寮での授業を終えた篁が、大内裏を歩いていると後ろから追いかけてくる人物があった。

「篁殿、お待ちくだされ」

 特徴的な甲高い声。それは振り返らずとも藤原春津であるということがわかった。

 なぜかこの男だけは大学寮内であっても、篁に声を掛けてくる。

「どうかなされたか、春津殿」

「いや、篁殿の姿をお見かけして……」

 春津は息を切らしながら、篁に言う。

「そんな慌てなくとも」

「篁殿の足は速く、追いつくのもやっとなのです」

「そうですか」

 足が速いと言われたのは初めてのことだった。ただ、背が高い分、歩幅が他人よりも広いことは確かだった。

「篁殿はお聞きになりましたかな」

「何の話でしょうか?」

 ここでも秀才の話だろうか。篁はそう思いながらも、息を整えた春津が話し始めるのを待った。

「口裂けの姫の話です」

「口裂け?」

「ええ、ご存知ありませんか」

 篁の知らないことを知っていたぞ。春津はそう言わんばかりの得意げな顔をして、口裂けの姫について話はじめた。

 春津によれば、口裂けの姫というのは、ここ数日洛中に現れているという奇妙な女のことであった。口裂けの姫は顔の下半分を布作面で覆っており、辻の暗がりなどに屈んでいるのだという。その存在に気づいたものが「どうかしたのか」と問いかけると口裂けの姫は顔の下半分を覆っていた布作面を剥ぎ取って「お前を喰らってやる」と大きな口を開けて襲いかかってくるのだそうだ。その口は耳まで裂けており、ギザギザに尖った獣のような牙を持っているということだった。

「ほう。初耳ですな」

「そうでしたか。篁殿が初耳でしたか」

 春津は嬉しそうに言う。

「して、その口裂けの姫とやらは、何処におられるのでしょうか?」

「私の聞いた話では、右京にある権中納言様のお屋敷に近い辻で見たとか」

「ほう。確か、権中納言様のお屋敷は先日、賊が入った」

「ええ、そうなんです。これはあくまで噂ですが、侵入してきた賊に殺された権中納言様の姫がとなって蘇ったのではないかと……」

 自分で言っていて怖くなったのか、春津は両手で自分の肩を抱くような仕草をしながら言う。

「やはり……」

「なにか、心当たりでもあるのですか、篁殿」

「いや、なんでもございませぬ」

 篁はそう言うと数日前の夜に見た女子おなごのことを思い出していた。

 その女子は、どこからか落ちてきた。それを篁が受け止めた。確かに顔は布作面で隠していた。足をくじいていたため、その足を治してやったのだ。あれが口裂けの姫だったというのだろうか。

「――と、いうことらしいので、篁殿もお気をつけくだされ」

「あ、ああ」

 篁が気のない返事をすると、春津は手を振って左京の方へと去っていった。

 途中から考え事をしていたため、春津の話は篁の耳には届いていなかった。まあ、春津のことだ、そんなに気に掛けるような話ではないだろう。篁はそう考え、自分も自宅へ帰るために朱雀大路を歩き始めた。

 しばらく篁は自宅のある右京へは向かわず、朱雀大路を歩いていた。

 なぜ篁がすんなりと自宅へ戻らないのか。それは背後をつけてくる気配があるからである。

 春津と別れて少し経った頃から、背後に同じ気配がずっとついてきていた。

 途中、東市に寄って夕飯用の川魚を買い求めると、腰を低くして篁は雑踏の中に紛れ込んだ。

 偉丈夫と呼ばれるほどに身体の大きな篁は、雑踏の中にいても頭ひとつ飛び抜けているため、すぐに見つかってしまう。だから、隠れるとするならば、腰を折って前屈みになってあるくしかなかった。

「もし――」

 篁が前屈みになって雑踏から抜け出したところで、背後から声を掛けられた。

 体勢を直した篁は、声を掛けてきた人物の方へ振り返った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る