乙姫

第1話

 嵯峨さがのみかどが譲位し、異母弟である大伴親王(淳和じゅんなの帝)が即位したのは、春が終わり新緑が芽吹き出した頃のことだった。帝の座を譲位した嵯峨帝は太上天皇だいじょうてんのう(上皇)となり、冷然院れいぜんいんに居住することとなった。

 桓武かんむ帝以降、帝の座は第一皇子であった平城へいぜいの帝、その弟である嵯峨帝と引き継がれてきた。嵯峨帝が即位した際に平城帝は太上天皇となり、皇太子として平城帝の子である高岳たかおか親王が立太子しており、嵯峨帝が退位した後は、高岳親王が帝となるはずだった。しかし、まつりごとの中心を平安京から平城京へと遷都しようと企む平城上皇による政変未遂事件、平城太上天皇の変(薬子くすこの変)が起きたことにより高岳親王は廃され、代わりに嵯峨帝の弟である大伴親王が皇太弟として立太子したという経緯があった。

 新たなる帝となった淳和帝は、皇太子に嵯峨上皇の子である正良まさら親王を選び、嵯峨上皇との関係性を保つようにした。

 また淳和帝の即位に伴い、大伴おおとも氏が帝のいみなと同名である大伴を避けてとも氏と改姓をするという出来事もあった。


 そんな淳和帝が即位するよりも少し前に話を戻そう。

 まだ太上天皇となる前の嵯峨帝は、帝であるうちに臣籍降下させた娘である源潔姫と臣下である藤原良房の結婚を認めた。これは皇女が臣下に嫁ぐという前代未聞の出来事であった。

 当時の結婚式というのは三日三晩に渡って行われる盛大な儀式である。結婚式は夜に執り行われ、新郎は一族郎党を率いて行列を作って新婦の屋敷へと赴くのである。しかし、面白いことに新婦の屋敷では新郎が夜中にやって来るということは知らないということになっている。これは新郎が夜中に忍んでやってきたというていでやっていることなのである。そもそも、結婚式は儀式であり、その儀式に則って行われる必要があった。

 新婦の屋敷へとやってきた新郎一行は、屋敷から灯してきた松明の炎と新婦の屋敷に掲げられた炎を掛け合わせる。これを火合わせと呼び、当時は様々な儀式で火合わせの儀を行っていたとされている。火合わせを行った後、新郎は新婦の屋敷に入り、すだれ越しに会って和歌を送り合うのだ。そして、その和歌でお互いの気持ちが通じ合えば、そのまま床入りの儀に移り、寝床を共にする。

 翌朝、自分の屋敷へと戻った新婦は昨晩のことを歌に詠み、その歌を新婦の屋敷へと送る。これもまた結婚の儀式のひとつであり、後朝きぬぎぬふみと呼ばれていた。この文に対して新婦が返事を送らなければ、この結婚は無かったこととなってしまうのだ。

 この一連の儀式を翌日も同じように行い、三日目にしてようやく新婦の両親が登場する。新婦の両親は新郎が屋敷に入ったことを認めると、新郎の靴を隠してしまい帰れないようにする。そして、新郎は初めて新婦の両親と顔合わせをして、三日夜餅みかよのもちを食べて、はじめて新郎は新婦の一族に婿として認められ、結婚が成立し露顕ところあらわしと呼ばれる披露宴が行われるのだった。


 ただ、良房の場合は相手が帝の娘であるということもあり、事情は違っていた。三日目の露顕には嵯峨帝の姿はなく、両家と付き合いのある朝廷の重臣たちが呼ばれて行われた。良房の父である藤原冬嗣ふゆつぐが右大臣であるということと、潔姫が臣籍降下したとはいえ帝の娘であるということもあって、露顕には多くの朝廷関係者たちが参加していた。

 また、藤原冬嗣は良房の結婚と同時期に、良房の妹である長女の順子のぶこを嵯峨帝の息子であり、淳和帝の皇太子である正良親王へと入内させており、嵯峨帝と藤原冬嗣家の繋がりを強くさせていた。これが後々の良房に大きな影響を与えることとなるのだった。


「結婚は良いぞ、篁」

 ここのところ上機嫌である藤原良房は右手に持った扇子で自分の肩の当たりを叩きながら、篁に言う。

「まさか、お前が潔姫様と結婚とはな」

「こればかりは自分でも驚いておる」

「結婚か……」

「良い相手はおらぬのか、篁」

「よせよ、良房。母上のようなことをいうな」

 篁がそう言うと、良房は笑ってみせた。

 女っ気がないというわけではなかった。時おり、文のやり取りをしている相手はいるようだが、篁はそういった話を良房の前ですることはなく、あまり女の気配というものを感じさせないのだ。だが、良房はわかっている。小野篁という男を放っておくような女がいるわけがないということを。背は高く、武芸にも優れ、さらには漢詩や和歌も得意である。現在は文章生という立場にはあるが、父である岑守みねもりは大宰大弐であり、将来は朝廷に出仕し、貴族となるに違いないと良房は思っていた。

「話は変わるが、ここのところぞくが出たという話をよく聞くが知っておるか、篁」

「ああ。その話は私も聞いた」

「先日は権中納言様のお屋敷、その前は少納言様のところが狙われたらしいぞ」

「物騒な世の中になったものだな。良房も夜中に出歩いていると襲われるかも知れぬぞ」

「ば、馬鹿なことをいうな」

 結婚してからというもの、良房は毎夜のように潔姫の屋敷へと通っていた。それを篁は知っていて良房に言ったのだ。

「腕の立つ従者をつけておいた方が良いぞ、良房」

「まあ、そうだな。その点、お前は何の心配もいらぬだろうな、篁」

「何がだ」

「お前のような偉丈夫を襲おうと考えるような者などはおらんし、もし襲ったとしてもお前のような武芸達者な人間であれば返り討ちにしてしまうだろうからな」

「ならば、お前の共として夜な夜な牛車を守ってやろうか」

「馬鹿なことを言うな。お前のような偉丈夫が一緒にいたのでは目立って仕方ない」 

 そう言うと、良房と篁は声を出して笑った。

 ふたりにとって、この会話はただの戯言であったが、それを近くで盗み聞いていた者にとっては冗談では済まなかった。

 顔の下半分を布作面で隠したその女は、篁たちの会話を盗み聞いた後、まるで猫のように軽々と塀を飛び越えて姿を消したのだった。

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