第14話
大学寮での学問を終えた篁が屋敷に帰ってきたのは、帳の降りる少し前のことだった。
文章生である篁は大学で
しかし、篁という男は何を考えているのかはわからなかった。
成績優秀であることは確かなのだが、時にとんでもないことを考えていたりもする。そのため、大学寮の中では浮いている存在であることは確かだった。
篁が屋敷に戻ると、一通の文が届いていた。差出人の名前は書かれておらず、文には梅の木の枝が添えられていた。
文の中身は和歌が書かれており、その和歌は恋の歌であった。差出人は女性である。
しかし、篁にはこのような恋文をもらう覚えがなく、一体何処の誰が送ってきたものなのかわからずにいた。
どうしたものか。篁は和歌を詠みながら考えてみたが、その和歌が心に染み込むような良い歌であったため、なんとなく返事の歌を詠みたいという気持ちにさせられていた。
文机に向かい、硯の上で墨を
梅の季節ではなかった。梅は冬から春にかけて咲く花だ。しかし、文の送り主は梅の枝を添えていた。これには何の意味があるのだろうか。梅の枝の意味を考えながら、夜空へと目を向けて歌を考える。月は雲に隠れており朧月となっていた。
翌朝、篁の屋敷を訪ねてきたものがあった。ちょうど、篁が大学寮へ向かう支度をしていたところだった。
「昨晩に文を置いていった者の使いにございます」
現れた男はそう告げた。髪に白いものが混じった小柄な男だった。着ているものを見る限り、みすぼらしい格好ではなく、どこぞの屋敷に仕えている人間のように思えた。
「文は確かにいただきました。こちらが返事となります。失礼ですが、どこぞの……」
「申し訳ございません。それは言えないこととなっております」
「そうなのか……」
篁はそれ以上追求することはしなかった。おそらく、これ以上問いただしたとしても無駄だろうと思ったためだ。
返事の文を受け取った男は篁の屋敷を出ていくと、軽い足取りで左京の方角へと歩いていった。
後をつけていき、どこの屋敷に戻っていくのかを見届けても良かったが、大学寮へと向かう
その日も紀伝道を学んだ篁は半日の授業を終えて、大学寮を出た。大学寮の授業は日によって違っている。篁が専攻しているのは紀伝道であるが大学寮では明法道(法学)や算道(算学)などの授業もあり、篁は暇さえあればそちらの授業に顔を出したりもしていた。しかし、文章得業生となるには、不要な授業であることから文章生の大半は他の授業はおろそかにしているところがあった。
「小野篁殿ではございませぬか」
大学寮を出たところで声を掛けられた。振り返ると、そこには男が小柄な男が立っていた。苦労を知らぬ育ちの良い顔をしたその男は、藤原
「おお、春津殿」
「篁殿は授業を終えられたのか」
「ええ。先ほど紀伝道の授業を終えたところです。春津殿は、これから明法道ですか」
「そうなんだ。正直、明法道は苦手です。私も紀伝道にしておけばよかった」
春津は苦笑いをしながら、篁に言う。
「あ、そうそう、昨晩に強盗が出たという話を篁殿はご存知かな」
「強盗ですか?」
「なんでも中納言様のお屋敷が襲われたとか」
「なんと!」
篁は驚きを隠せなかった。昨晩、篁に辻の暗がりで助けを求めてきたのは、中納言家の下女であったようだ。考えてみれば、あの場所から中納言の屋敷は辻をひとつ挟んだ場所にあった。
「篁殿もご用心なされよ」
「なに、私には盗られるようなものは何もない。あるとすれば、この大きな身体くらいです」
そう言って篁は笑ってみせ、春津と別れた。
朱雀門を抜けて大内裏を出ると、その足で東市へと向かうことにした。夕食のおかずを買うのと一緒に、筆を見ておきたいと思ったのだ。
先日、篁は良房に良い筆を選んでやった。馬の毛を使った筆であり、値段もそれなりの物であったが、あれは良い筆に違いなかった。
文が届き、返事を書き始めた時から、篁も新しい筆が欲しくなっていた。良房ほどの良い筆でなくとも良い。そう思いながら、筆屋の中を覗く。
何本か手に取り、自分の手に合ったものを選ぶ。毛はやはり、馬が良い。篁は馬の毛の筆が好きなのだ。あの柔らかい書き心地がしっくりと来るような気がしている。
選んだ筆を買い求め、夕飯用の川魚を買ってから、篁は東市を後にした。
篁が自分の屋敷に戻った時には、すでに夕日は山の向こうへ隠れ、夜の帳が降りていた。
火をつけて明かりを灯すと、玄関先に新しい文が届いていることに気がついた。
実はまた文が届いているのではないかという期待はあった。しかし、あまり期待しすぎてしまい、実際に文が来ていない場合に落ち込むのは嫌だと思って、期待はしないようにしていたのだ。
夕飯の支度をしながら、文を読んだ。文には返事をくれたことへの感謝が綴られており、さらには歌が詠まれていた。
このような素晴らしい歌を詠む
篁はそう思いながら、文を読み終えると夕飯を済ませてから、また墨を磨った。
文机に向かい、いつものように筆を選ぼうとして、手を止めた。何のために新しい筆を買い求めたのだろうか。篁はひとりで笑ってみせると、新しい筆を取り出して墨をつけた。その筆は篁の手に吸い付くかのようにしっくりと来るものだった。これは良き筆に出会えたものだ。新しくおろした筆で書く文は、どこか楽しいことのように思え、篁の頬は緩んだままだった。
さて、今宵はどのような歌を詠むか。筆おろしの歌でも詠んでみるのも面白いかもしれない。篁はそう考えながら、文机に向かって筆を取るのだった。
第一話 ふでおろし 了
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