第9話

「よくぞおいでくださいました、良房様、篁様」

 御簾の向こう側から声が聞こえ、そこに髪の長い女性がいるのが薄っすらと見える。それは潔姫に間違いなかった。

「こちらこそ、お招きに預かり……」

 そう良房が言い掛けたところで、突然強い風が吹き込んできて、部屋の灯りや外で焚かれていた篝火の炎を消してしまった。

 突然訪れた闇に良房は言葉を飲み込み「ひぃ」と小さな悲鳴をあげる。

 篁は腰に佩いている太刀へと手を伸ばし、いつでも抜ける態勢を取った。

 静寂が訪れた。

 あまりにも静かすぎる。

 そこに違和感を覚えた篁は辺りをゆっくりと見回した。

 すぐ隣には、身を丸めるようにして震えている良房の姿がある。しかし、すこし離れた御簾の向こう側には潔姫の気配は感じられなかった。

「おい、良房。潔姫様の姿が見えぬ」

「なんと」

 篁の言葉に良房は顔を持ち上げると、そのまま這いずるようにして御簾の方へと移動をはじめた。

 消えたのは潔姫の姿だけではなかった。香の匂いも消え、周りの音も消えている。

 これは、歌会の時にげんが現れた時と似ていた。

「良房様、篁様っ!」

 どこからか潔姫の声が聞こえてくる。

 闇の中で篁たちはその声が聞こえてくる方向を判断し、目を向けた。

 そこには蒼い光が見えていた。

 鬼火。そう呼ばれる蒼い炎が存在する。それは現世うつしよのものではなく、常世とこよのものとされている炎である。

 一瞬ではあるが、その鬼火の明かりで潔姫の姿が見えたように思えた。

「いま行きますぞ、潔姫」

 良房は闇の中を一直線に鬼火へ向かって走っていこうとする。

 待て、良房。そう篁が声を掛ける間もなく、良房は悲鳴に近い声をあげた。

「あなやっ!」

 突然、良房が仰向けに倒れた。よく見ると、良房の体には御簾がまとわりついている状態だった。

 この部屋に入ってきた時、部屋の四方は御簾で囲われていた。たとえ闇となり、周りの音や明かりが消えたとしても部屋の造形などは変わってはいないようだ。先日の歌会の時、幻は闇の空間のことを結界と呼んでいた。これも同じ結界というやつなのだろうか。篁はそんな疑問を覚えながら、倒れている良房に近づき、良房がただ倒れて気を失っているだけだということを確認した。

「潔姫様、ご無事ですか」

「わたくしはこちらにおります。ただ、真っ暗で何も見えなく」

「そこから動かないでください」

 篁はそう言うと潔姫のいる場所まで慎重に足を進めていった。

 ゆらりゆらりと蒼い炎が揺れている。なぜ、常世のものがここにいるのだろうか。潔姫の見たという黒い影というのは、常世のものだったということなのだろうか。様々な疑問が篁の脳裏をよぎる。

「うぬは何者じゃ」

 潔姫の顔が見えるところまで篁が近づいた時、地の底から響くような声が聞こえてきた。

「それはこちらの台詞。常世とこよのモノが何のようだ」

「面白い男よ。こちらが常世のモノとわかっていて、その口の利き方か」

「答えになっておらぬぞ」

「よかろう、面白き男。我が名は阿傍あぼう、お前の言う通り常世のモノよ。さあ、我は名乗ったぞ。そちらも名乗るがよい」

「私は、野篁やこうだ。お前がこの屋敷の女房である小夜殿をかどわかした犯人なのか」

「知らぬ」

 阿傍はつまらなそうに言った。姿は見えないが、なにか獣のような臭いが漂ってきている。

「では、阿傍は何故なにゆえに、ここへとやって来たのだ」

「何故に……だと。笑わせるな、野篁。お前らが我をここに呼んだのではないか。我も呼ばれなければ、このような場所までわざわざ来たりはせぬ」

「呼んだ?」

「ああ、そうじゃ。にえを捧げ、我を召喚したのだ」

「なんと……」

 篁は絶句した。常世のモノである阿傍を呼び出したのは、この屋敷の誰かだったのだ。呪術じゅじゅつ。そう呼ばれるいにしえより伝わる術の存在は篁も知っていた。その呪術の中には、誰かを呪うために生贄を捧げて常世のモノを呼び出す術も存在している。理由はわからないが、この屋敷の誰かが、その呪術を使い阿傍を召喚したのだ。

「我は召喚した者の願いを請け負うだけだ。邪魔をするな、野篁よ」

「その願いとは何なのだ」

「女を三人、喰らうことよ」

 闇の中であるため阿傍の顔は見えないはずだが、阿傍がにやりと笑う姿が見えたような気がした。その笑みは残忍なものであり、まさに羅刹らせつのような顔であった。

「三人も喰らうつもりなのか」

「ああ、そういう契約だからな」

「すでに何人喰らったのだ、阿傍」

「まだ、ひとりだけだよ。一晩でひとり。それも契約の中に含まれている。今宵は、この女をいただくことにする」

 阿傍はそう言うと、鬼火の蒼い炎で潔姫の顔を照らしてみせた。潔姫は気を失ってしまっているのか、目を瞑ったままだった。

「そうはさせん」

 腰に佩いていていた太刀を抜きながら篁はそう言うと、しっかりと太刀を構えた。

「ほう、人間ごときが我の邪魔をしようというのか」

 その阿傍の言葉に篁は答えず、口の中で真言と唱えながら阿傍との間合いを詰めていった。

 あと一歩踏み込めば、阿傍に太刀が届く。その間合いまで篁は近づくことができた。しかし、そこから先へはなぜか足が動こうとはしなかった。

 闇の中で蒼い炎が揺らめいている。

 獣の臭いと血の臭いが混じり合ったような、なんとも言えない臭いが鼻につく。

 阿傍のものと思われる息遣いが聞こえてくる。

 しかし、姿は一向に見えない。

 突然、風を感じた。

 篁は慌てて、一歩後ろへと飛び下がる。目の前を何か大きな棒のようなものが通過したような気がしたのだ。

「やるではないか、野篁」

「姿を見せよ。卑怯ではないか」

「卑怯なものか。そちらが見えないだけであろう。こっちは、はっきりとお前の姿が見えておるぞ、野篁」

 笑いながら阿傍は言うと、雄叫びをあげながら何かを振り回した。

 風が唸るような音だけが聞こえてくる。

 篁はその音を頼りに距離を測っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る