第8話
夜の
その夜の警備をしている検非違使は、篁とは顔見知りの者であったため、特に咎められることなどもなく、篁は朱雀門を潜ることが出来た。
大内裏内には多くの省庁などが存在しており、昼間と変わらずに職務を全うしている人間たちがいる。各省庁では
篁の向かう先は決まっていた。中務省の隣りにある建物、陰陽寮である。篁は歌会の晩に会った陰陽師を訪ねるために陰陽寮へと向かっていた。
「私は大学寮の文章生、小野篁と申します」
篁は陰陽寮の入口にいた
すると男はじろりと鋭い目つきで篁のことを見て、一呼吸おいてから口を開いた。
「話は聞いておりますぞ。廊下を進んで一番奥にある部屋におられますから、行かれると良い」
老年の男はそう言うと、陰陽寮の建物の廊下を指さした。
どういうことだろうか。篁は奇妙な感覚にとらわれていた。老年の男は、まるで自分がやって来ることを知っていたかのような口ぶりだったのだ。
老年の男の言葉通りに廊下を進み、一番奥の部屋の前に篁が立ち、御簾の向こう側に声をかけようとすると中から先に声を掛けられた。
「よくぞ来てくれたな、篁殿。入られよ」
その声は、歌会の時に現れた陰陽師のものだった。
篁は御簾を持ち上げて潜るようにしながら部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋に居たのは間違いなく先日の陰陽師であった。陰陽師は口元に笑みを浮かべながら篁のことを迎え入れた。
「あの、本日は……」
「わかっておる。相談事であろう。すべてはわかっておる」
「なぜ、わかるのでしょうか」
率直な疑問だった。ここに来てからは、まるですべての行動が先読みされているかのような感覚に陥っている。篁はその奇妙な感覚について、口に出さずにはいられなかった。
「すべては決まっていることなのだよ。それを星や式神たちが教えてくれる」
陰陽師はそう言うと扇子を取り出し、パタパタと自分のことを扇いだ。
向こうは答えたつもりなのだろうが、篁にはそれは答えだとは思えなかった。なぜなら、陰陽師が何を言っているのか篁にはさっぱりわからなかったからだ。
「そうであった、まだ名乗ってはいなかったな。私は陰陽寮に所属する陰陽師で
「刀岐浄浜殿……」
聞いたことのない名だった。そもそも、篁に付き合いのある陰陽寮の者はひとりもいない。
陰陽寮には大学寮の文章生のように、陰陽道を学ぶ
「それで浄浜殿にご相談なのですが」
「言うたであろう、わかっておると。そう
まるですべてを知っているといった口調で浄浜は言った。
篁は浄浜の言葉に従い、陰陽寮の建物を出ると、そのまま藤原良房の屋敷へと足を向けた。
良房の屋敷に向かうと、すでに屋敷の前には牛車が待っている状態であった。
篁が徒歩で牛車に近づいていくと屋形の御簾が開けられ、中から良房が顔を覗かせる。
「待っておったぞ、篁。早う、乗れ」
「随分と準備が良いな、良房」
笑いながら篁が言うと、良房の牛車へと乗り込んだ。
篁が乗り込むと、牛車はすぐに出発した。向かう先は潔姫の屋敷である。
「先ほど、潔姫から使いが来てな」
すこし恥ずかしそうに良房が言う。
篁が良房の口から潔姫の名前を聞いたのは、これが初めてのことであった。いままで、ずっと良房は潔姫のことを篁に隠してきたのである。それにも関わらず、篁は良房の代わりに潔姫への文を書いたり、歌を詠んだりしてきた。どんなに相手のことを聞いても良房は口を割らなかったし、篁もそこまでの相手では無いだろうと思っていた。それがまさか、嵯峨帝の娘である源潔姫であったとは思いも寄らぬことだった。
「して、良房。お前は女房の小夜殿という人を知っておるのか」
「いや、私も潔姫から、その名前を聞いただけじゃ」
「そうか……。これはただの失踪というわけではないのか?」
「しかし、潔姫も黒い影を見たと言っておる。もし、潔姫の身に何かあったら、私は……」
「ふむ」
どこか何かが引っかかる。篁は違和感を覚えながら、牛車に揺られて潔姫の屋敷へと向かった。
潔姫の屋敷は左京にある、広大な敷地を持つ寝殿造の屋敷であった。
篁たちの乗った牛車が門前で止まると、ふたりは牛車から降りて潔姫の屋敷の中へと入っていった。
屋敷内では多くの篝火が焚かれており、潔姫の家人がふたりのことを潔姫のもとへと案内した。
「素晴らしい屋敷だな、篁」
「来たのは初めてなのか、良房」
篁の問いに良房は無言でこくりと頷く。その顔はどこか強張っており、緊張した面持ちであるということがわかった。
「こちらでございます」
ふたりが案内された部屋はとても広い御簾で囲まれた部屋だった。部屋の中は昼間と変わらないほどに明るく、そして香の匂いが漂っていた。
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