第7話

 篁の屋敷の前に立派な牛車が止められたのは、夜の帳が降りはじめた頃だった。

 夕餉の支度をしようと、かまどに入れる火を起こしていたところ、門の外から声を掛けられた。

 屋敷と言っても小さな住居であり、門のところからちょっと顔を覗かせれば、中は丸見えになる程度の屋敷である。

「小野篁殿はご在宅か」

「ここにおります」

 篁は燃え始めようとしていた火種を草鞋わらじで踏み潰して消火させてから、顔をのぞかせた。

 声を掛けてきたのは若い男であり、初めて見る顔だった。着ている物を見る限りは高貴な人物に仕える従者といったところだろうか。この時、篁にはその先に止められている牛車の姿が見えていなかった。

「我が主が篁様にお目にかかりたいと申しております」

 男はそう言うと篁に頭を下げた。

 一体どういうことなのだろうか。篁は理由わけがわからず、首をかしげた。

「すみませぬ、そちらの主と申されるのは、どなたなのでしょうか」

「それは言えませぬ。まずはお会いになってくだされ」

 男はそう言って篁の袖を引っ張るようにして、少し離れた辻に止められた牛車まで篁のことを連れて行った。

 そこに止められていたのは、立派な屋形の牛車であった。牛車の脇には牛飼童が立っており、篁のことを見て深く頭を下げた。

 このような立派な牛車に乗る人物に知り合いなどはいない。篁はますます理由がわからなくなっていた。

「主が中で待っております」

 男はそう言うと牛車に乗るように篁へ促した。

 本当に大丈夫だろうか。篁は警戒をしながらも、ゆっくりと御簾の降りている牛車の屋形の中へと入った。

 牛車内は思っていた以上に広く、中も御簾で仕切られている状態となっていた。

 屋形の中に入ってすぐに篁の鼻腔に届いたのは、こうの匂いだった。

「このような形でお目にかかることをお許しください」

 御簾の向こう側から声がした。若い女の声だった。屋形の中は明かりが灯されていないため、女の姿は影でしか見ることができない。

 しかし、篁にはその御簾の向こう側にいる人物が誰であるかはわかっていた。顔も見たこともなければ、声も聞いたこともない。ただ何度か、良房の代筆としてふみのやり取りをしていたことがある人物だった。

「源潔姫様でございますね。お初にお目にかかります」

「堅苦しい挨拶は抜きにしてくださいませ、篁様。篁様のお話はよく良房様から聞いております」

「そうでしたか。して、今宵はどのようなご用向きで」

「篁様には、の姿が見えるとお聞きしました」

 嫌な予感がした。大抵、嫌な予感というのは当たるものだ。篁は首筋に薄っすらとかきはじめた汗を手の甲で拭うような仕草をしてみせた。

「その話も良房から聞きましたか」

「ええ。良房様から聞きましたわ」

 良房以外に誰がそのような話を潔姫にしたというのだろうか。篁は疑念を抱きながらも話を進めた。

「それで、潔姫様は私に何をせよと言われるのでしょうか」

「まあそんな、わたくしは篁様に命令などはいたしませぬわ。ただ、お力を貸していただきたいと思っているだけです」

 どちらにせよ、断ることはできない。それだけは確かだった。篁は潔姫に悟られないように苦笑いを浮かべる。

「わかりました。お話を聞かせていただきましょう」

「わたくしの女房のひとりに小夜さよという者がおります。気立ての良い娘で、いつもわたくしに元気をくれる存在です」

「はあ」

 話が全然見えてこなかった。その小夜がどうかしたというのだろうか。篁はそんなことを思いながらも、未だに止まらぬ嫌な汗に不快感を覚えながらも、潔姫の話に耳を傾けた。

「その小夜なのですが、数日前から行方がわからなくなっておりまして」

「検非違使には届け出をしましたか」

「いえ、まだしておりません」

「では……」

「小夜がいなくなる前に妙なことを言っておりまして」

「妙なこと?」

「はい。屋敷の廊下で夜な夜な黒い影が歩いているのを見たと……」

「黒い影……ですか」

「ええ。影を見たというだけであれば、何かの見間違いでしょうと笑い話で済ませることが出来たのですが、小夜が姿を消してしまいまして」

「その女房の他に、黒い影を見たという人はおられないのでしょうか」

「それが……」

 潔姫はそこまで言って急に黙ってしまった。

 どういうことなのだろうか。篁は不安を覚えながらも、潔姫が口を開くのを待った。

「実は昨晩、わたくしも……」

「潔姫様が黒い影を見られたと」

「ええ。丑の刻の頃でしょうか。ふと、目を覚ましてしまいまして。なにか妙な気配のようなものを感じ、女房たちを呼ぼうかと思いながら、廊下に出たところ……」

「その影というのは、どのような形でしたか?」

「大人の男性くらいの大きさです。あ、篁様ほど背丈は大きくはありませんわ」

 篁の背丈は、六尺二寸(約一八八センチ)とかなり大きかった。なお、当時の男性の平均身長は五尺三寸(一六〇センチ)前後だったとされている。

「それは渦のようなものではなかったですか」

「いえ、確かに人のような影でしたわ」

 篁は腕組みをして考えるような仕草をしてみせた。

 潔姫が見たという黒い影とは一体なんなのだろうか。篁が目にするのは、人の形をした影の時もあるが、大抵は黒い渦を伴っている。しかし、潔姫はそれは見ていないというのだ。ただ、先日の歌会に現れたげんのようなモノも存在する。もしかしたら、潔姫の身に危険が迫っているのかもしれない。そう考えた篁は、潔姫に気づかれないようにため息をついた後で口を開いた。

「わかりました。調べてみましょう。ただ、夜分に潔姫様のお屋敷に私が伺うというのも何ですので、良房にも同行してもらいます」

「ありがとうございます、篁様」

 本当にこのような話を引き受けてしまってもよいのだろうか。篁はそんな疑問を覚えながらも、あの男にも声をかけてみるべきだと考えを巡らせていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る