第6話
閑院邸の廊下を音もなく、ひとりの男が歩いてくるのが見えた。烏帽子に白い水干といった姿のその男に、篁は見覚えがあった。いつしか中務省の前で会った陰陽師である。背は小柄で、妙に色が白く、そして涼しい顔をしていた。
「これはこれは、先客がいましたか」
陰陽師は篁の方を見てふっと笑い掛けると、鋭い目つきで幻を睨みつけた。
「なぜ我の結界の中に陰陽師が入れるのじゃ」
「結界? ああ、この薄っぺらい膜のようなものですか」
残念そうな口調で陰陽師は言うと、素早い動作で腰から剣を抜き放ち、幻の首元に剣先を突きつけた。
「今宵は中秋の名月に免じて見逃してあげましょう。さっさと立ち去りなさい」
「面白いことをいう男じゃな。我の力を見せてやってもよいのじゃぞ」
「そのようなもの見ずとも、実力は知れている。さっさと引かれるが良い」
「口だけは達者な陰陽師よ」
幻はそう言って笑ってみせると、爪の伸びた指先で陰陽師が突きつけている剣の先端に触れてみせた。
すると、陰陽師の持っていた剣が黒いヘビに変化し、そのまま陰陽師の首元へと襲いかかった。
陰陽師は一歩後ろに下がると自分の指に息を吹きかける。それと同時に何やら篁にはわからない言葉を呟いていた。
一瞬、眩い光に辺りが包まれた。
「あなやっ!」
幻の悲鳴に近いような声が聞こえた。
目を開けると、幻が中庭でひっくり返るようにして倒れており、陰陽師が自分の指先を幻に突きつけて立っていた。何が起きたのか、篁には一切わからなかった。
「おかしな真似はしないことですよ」
「おのれ、陰陽師め」
「さて、どうしたものですかね。
「な、なにが言いたいのじゃ」
「
陰陽師はそう言うと、胸の前で指を組んで印を作ると、何やら呪文のようなものを唱え始めた。
篁にとって陰陽師が術を使う姿を見るのははじめてのことだった。なにを言っているのかはわからないが、真言とはまた違った言葉を唱えているようだった。
幻は陰陽師のことを邪魔するかのように口から黒い瘴気のようなものを吐き出すと、それを陰陽師の方へと吹きかけた。その黒い瘴気は人の頭ほどの大きさの渦となり、陰陽師に向かって飛んでいく。
その黒い渦に篁は見覚えがあった。先日も東市で見た死亡した男の上に浮かんでいたあの黒い渦だった。
陰陽師は印を組むことに集中しているためか、それとも黒い渦が見えていないのかはわからないが、自分に向かって来ている黒い渦に対して何もしようとはしなかった。
これはまずい。そう思った篁は、先ほど屋敷の家人が烏を追い払うために使っていた竹竿を見つけて手に取ると、黒い渦に目掛けてその竹竿を振り下ろした。
勢いよく振り下ろされた竹竿は、野太い空を斬る音をあげながら黒い渦を一刀両断する。
「あなやっ!」
まさか篁が黒い渦を竹竿で斬るとは思ってもいなかった幻は、悲鳴に近い声をあげて後ずさりをした。
そして、篁のことを睨みつけると怒気のこもった表情を浮かべる。
「おのれ野篁め、お前まで我の邪魔をするというのか」
「なにを言うか。先に歌会の邪魔をしに来たのは、そちらであろう」
「どう考えても貴女の方が不利な立場ですね。まだ続けますか」
陰陽師はそう言いながら、指を素早く動かして印を組み続けている。
それを見た幻は歯を噛みしめて悔しそうな表情を作ると、ふっと力を抜いたように笑みを見せた。
「この勝負、預けておこう」
そう言うや否や幻は姿を烏に変えると、その場から飛び去っていってしまった。
「助けられましたね、ヤキョウ殿」
組んでいた印を解きながら陰陽師が篁に言う。
「いえ……あの、私はヤキョウではなく
「おや、これは失礼しました。おかしな
陰陽師は、その薄い唇の口角を持ち上げて笑みを浮かべると、ふわりと浮くようにして闇の中へと消えていった。
突然、音が戻ってきた。
美しい琴の音色が聞こえてきて、誰かが歌を詠み上げている声がする。
「あ、ここにおったか。篁、早うこちらへ来い。お前にも歌を詠んでもらわねばならんのじゃ」
慌てた様子で良房が篁のことを呼ぶ。
先ほどまでいたはずの幻と名乗った女や陰陽師とのやり取りは何もなかったかのように、
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