第5話

 ひとりになった篁は喧騒から離れて、ひとり中庭の見える廊下へと出た。

 閑院邸の中庭というのは、小舟を浮かべられるほどの大きな池のある広い庭で松の木や梅の木、桃の木など様々な木々が植えられており、季節ごとにその風景が楽しめるようになっていた。

 篁は美しいほどに真ん丸な満月を見上げながら、なにか良い歌でも詠めぬものかと物思いに耽っていた。

 すると、どこから現れたのか一匹のからすが松の木に止まり、嫌な鳴き声をあげはじめた。

「これ、邪魔をするでない」

 屋敷の家人たちが長い棒を持って来て、烏のことを追い払おうとするが、烏はそんなことはお構いなしといった様子で不気味な声で鳴き続けた。

 その様子を見ていた篁は、なにか違和感を覚えていた。烏の周りに何やら黒い霧のようなものが集まってきているように見えたのだ。黒い霧は瘴気と呼ばれるものだった。そして、その瘴気をまとった烏は邪のモノに違いなかった。

 この烏は、誰かがこの歌会のことをよく思わず、邪魔をするために放ったしゅなのだろうか。

 中庭に降り立った篁は、小石を拾い上げると口の中で素早く真言を唱えてから、その小石を烏へ向かって投げつけた。

 篁の手から放たれた小石は、烏に向かって一直線に飛んでいく。

 小石が当たる。そう思った瞬間、低くとても耳障りな鳴き声が聞こえてきた。

「愚かなりっ!」

 大きな声だった。その声ははっきりとした人間のものであり、そして女の声だった。

 驚いた篁は、辺りを見回した。誰かが烏の振りをして叫んだのではないかと思ったのだ。

 しかし、篁の周りには誰もいなかった。それどころか、先ほどまで賑わっていたはずの閑院邸からは人の気配が消えていた。いま、ここにいるのは篁と松の木の上にいる烏だけである。一体、何が起きたというのだろうか。篁は警戒をしながら、ゆっくりと後ずさりした。

「お前は何者じゃ」

 松の木の上から烏が人間の言葉で話しかけてくる。そして、その翼を羽ばたかせながら、ゆっくりと篁の前へと降り立った。

 篁の目の前へと降り立った烏は、黒い着物姿の女へと姿が変わっていた。女はかなり近い距離で、篁の目の中を覗き込むような素振りを見せて、その朱い唇を歪めるようにしてにやりと笑ってみせた。

「もう一度聞こう。お前は何者じゃ」

「私は……」

 そこまで言いかけた時、篁はあることを思い出していた。邪の者に対して、本当の名前を名乗ってはならない。それは空海が教えてくれたことだった。邪の者に本当の名前を教えてしまうと、その名前に対してしゅを掛けられてしまう恐れがある。邪の者たちは決まって、こちらに名を尋ねてくるはずだから、その際は決して本名を名乗らないようにすることだと空海は篁に教えていた。

野篁やこうだ」

 篁は偽名を名乗った。これは唐風に姓を一文字にして、小野篁だから野篁と名乗ったのだった。

「ほう、野篁と申すか。聞かぬ名じゃな。どこぞの野篁じゃ」

「別にどこの野篁でも良いだろう。私は野篁である。それだけだ。こちらは名乗ったのだ、そちらも名乗るのが礼儀であろう」

 篁の言葉に女はその妙にあかい唇を歪めて再び笑みを浮かべた。

の名はげんとでも申しておこうか、野篁」

「幻は、なぜ歌会の邪魔をしにきたのだ」

「歌会? 大勢の連中が集まってきておると思っていたが、そうか歌会であったか。愚かな、愚かなことよ」

 そういうと幻は大きな声で笑ってみせた。

「幻はここへ何をしに来たのだ」

「我か、我は今宵ここで宴があると聞いてな。ここにいる愚かな人間どもをすべて喰らってやろうと思って来たのじゃ」

 幻はそう言うと口を大きく開けて笑ってみせた。その口の中に見えたのは、人のモノとは思えぬような鋭く尖った牙のような歯であり、その口の奥には黒い渦があった。

 やはり、邪の者か。こんな厄介な相手を自分ひとりでどうにかできるものなのだろうか。篁はどうすれば良いか考えていた。

 いつも腰に佩いている太刀は、良房の家人に預けており丸腰であった。真言を唱えることはできるが、先ほどの小石を投げた時のように弾かれてしまう可能性は高かった。組み付いて相撲に持ち込むということも出来なくはない。相撲は陸奥国にいる時に、蝦夷などと散々やってきたことだった。しかし、邪のモノに相撲が通じるかどうかはわからないことだった。

 突然、静まり返った空間に鈴の音のような甲高い音が響き渡った。

 驚いた篁はその方へと目を動かす。それは篁だけでなく、幻も同じだった。

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